彼らの日々 One day
チっ。
そういう響きの僕の舌打ちを耳聡く聞きつけた竜崎が、ふふ、と含み笑いをする。
ソファの端のぎりぎりで、そっぽをむいて座っている僕に目線をちらりと投げてくる。
僕は、竜崎から離れたくてわざとこうして遠ざかって嫌悪と拒絶の態度を見せつけているのに、当の本人は皆目、いっさい、気にしていない。
僕のほほの赤い殴打のあとを眺めながら、ソファのだいたい真ん中に座りこんで、楽しげに親指をしゃぶる。
ふふふふふ。
「笑うな」
表情の乏しい、血色の悪いカエル面に浮かんだ笑みに、僕は苛々する。おもわず恫喝に近い声で制止したが、しかしその程度のことで神経の図太い竜崎がへこたれるはずもないのだ。
親指をしゃぶりながら、だから言ったじゃないですか、と竜崎が楽しそうにつぶやく。
「私、結構強いんですよ? 蹴り、すごくきれいに入りました。痛いでしょう?」
「痛くない」
「嘘」
「うるさいな。本当だよ、痛くない」
言えば、竜崎のほそい指がふららふらと伸びてきて、つんつんと僕のリンゴのように色づいた頬をつつこうとする。
「よせ」
僕はむきになってそれを払いのけ、大仰なしぐさでそっぽを向く。ぱしっと叩かれて宙に放り出された指先を再び口元に押しつけて、竜崎は細い首をパタンと横に倒して見せた。
「痛いくせに」
ぼそりとひとこと。
「……」
沈黙。
そしてあきれたようなためいき。微風に香る甘い匂い。
「やせ我慢もほどほどにしておきましょう。それは意味のないことですよ、月くん」
「……」
「私は月くんに殴られたところが痛くてたまりません。痛いです。すごく痛いですよ。ああ、痛い。ああ、痛い」
言いながらソファのうえにごろりと寝ころんで、僕に殴られたほほに手を当てて、まるで駄々っ子のようにごろごろと身を揺すってみせる。それまで全然平気な顔をしていたくせに、いまさらのように大げさに痛みを訴えて、うざったいことこの上ない。
「痛いです、痛いですよ、月くん。月くんはきっと将来、暴力亭主になるんですよ。ひどいですね、ああ、痛い」
なるわけがないだろう。
僕は基本的にフェアで誠実でフェミニストなんだと心の中で言い返し、鬱陶しい男をことさら意識的に無視し続けた。
チ。
舌打ちをひとつ。
相手にしてくれないと見て取るや、竜崎はぴたりと泣きごとを中止して起き上がり、
四つん這いになってじりじりと迫ってきて、こちらを見上げた。
「あのう、……月くん、知ってます? いたいのいたいのとんでいけーって。ねえ、知ってます?」
「……」
「小さい子がケガをして泣いているときの、おまじないです。いたいの、飛んでけーって。そうしたら空のむこうに飛んでいくんでしょうか。
それとも山のむこうの鬼が食べてくれるんでしょうか」
「……」
「月くん、痛いって言ったら、私が呪文を掛けてあげますよ。
痛みを認めて口に出せば、きっと誰かが慰めてくれます。
そうすれば身体の痛みは残っても、心の痛みが和らぎます。月くん。私は、すごく痛い。わかりますか。私は痛いです」
「………」
赤くなった唇の端に人差し指をちょこんと当てて、とぼけた顔で繰り返す。いたいのいたいの、とんでけーと言って、また小さく笑った竜崎は、もうとっくに先だっての殴り合い、蹴り合いの喧嘩のことを水に流しているようだ。
── 僕の痛みは、まだここで孤独にふてくされてくすぶっているというのに。
でも慰めて欲しいなんて口が裂けてもいえない。
おまえにだけは、そんなこと絶対に言ってやらない。
僕は、殴られた頬を撫でるふりをして、竜崎の視線から顔を隠した。
「僕は痛くないよ」
「……ライトくん」
黒い目が近寄ってくる。
近づくほどに、僕はどこか──胸が苦しい。
頬の痛みではなくて、どこか胸が痛くなる。
「……僕は痛くないんだ」
痛くなんか。
そう呟いた、あと。
── っていうのは、嘘だよ、と。
ほんとうにかすかな。
砂が風に吹かれて移動するぐらいの静けさで。
付け加えてしまった。
そのとき、すぐそばで手錠の鎖がちゃらりと音をたてた。
近づいてきた大きな黒い目はゆるい笑みのかたち、その唇が音にならない声で呟く。
いたいのいたいのとんでいけ。
「月くんの痛みなんか、私が食べてあげます」
竜崎はチェシャの猫のようににやにやと笑った。
瞬間、頬が蹴られた直後よりも激しく赤く、恥ずかしさでかあっと頬がほてった。
胸が不自然な鼓動の音を立てている。
ほんとうに頬は痛くなくなった。でもそのかわりに胸の方が痛くなりすぎた。僕はどうしようもなく
居心地の悪い気分になる。そんなに近づいてくるな。竜崎。僕を慰めたりするな。
── おまえとともにいると、僕はいつも矛盾ばかりだ。
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