廃墟
校庭。
下校時刻。
ブレザーの学生服が、薄いカバンを小脇に抱えて立っている。
高校生の夜神月だ。
幼さの残る横顔。
退屈そうな表情。
視線を落としている、その足元に一冊の黒いノート。
──デスノート!
月の心臓が激しい音を立てた。
止まりそうになった。
誰も知らないはずの光景だ。
月だけが知っているはずの物語。
物語の始まり。
月の運命。
それがどうして。
背筋に冷たいものが走る。
(──本当に、ここは僕の世界?)
月は、Lを見た。
Lはデニムのポケットに片手を入れ、もう片手で月の手を握ったまま、黙っていた。高校生の月を凝視していた。
表情はまったく変わらない。
月の胸に焦燥感が迫る。
Lに見られてはいけないと強く思った。Lの見ている前でそれを拾ってはいけない。
でも手も足も凍り付いたように動かなかった。
学生服姿の月が身をかがめる。黒いノートを拾い上げる。
月の心臓がうるさく響く。
ノートの表紙を眺めてかすかに嗤う、無知な少年。
“死”のノート?
はは。
くだらないな。馬鹿らしい。
嗤う。
誰を嗤っている。
嗤っているのは誰だ。
クククク……。
忌々しい笑い声が鼓膜を揺さぶる。月は思わず胸を押さえた。服を握りしめる。
──捨てろ。
それを拾うな。
過去の自分自身を見つめて叫んだ。
やめろ!
拾うな!
声にならない。
Lが月の手を強く握った。
恐ろしくなって、月もその手を握り返した。
「大丈夫ですよ」
Lはひどく優しい声で囁いた。
大丈夫、月くん。
何も怖いことはない。
見ていればいいんですよ。
「これはすべて、取り返しのつかない過去のことです」
「……」
「もう終わったことだから」
泣きたくなるほどやさしい声で。
「見ています。最期まで」
ちゃんと見ていてあげます。
ライトくん。
Lの声はひどく遠くに響いて聞こえた。
そして少年は人を殺した。
テレビに映し出された立てこもり犯を。コンビニで見かけた若者を。
名前を。
ノートに名前を書いて試した。
このノートに名前を書くと、本当に人は死ぬのか?
ただそれを確認するために。
人を殺した。
月は喉を詰まらせた。身が竦む想いだった。体中の細胞が収縮して固くなり壊死を願う。消えてしまいたい。いますぐLの前から消滅したい。これを見られてしまったら、月は終わりだ。Lに、どうやってキラの殺人を行っていたか、知られてしまい、そして、行うところを見られてしまったら、月は本当に“キラ”になる。
悪いやつなんてみんな死んでしまえばいい。誰だって一度は思うことだろう。小さな悪。平気でタバコの吸殻を道に捨てる人間。大きな悪。テロリスト。戦争犯罪者。他人の命を奪うやつはみんなそうだ。死ねばいい。子供じみた発想だった。馬鹿みたいだ。Lに言ったら、鼻で笑われる。そんな幼稚なことを考えるなんて、まだまだ月くんも子供なんですね。そう言って嗤うだろう。
そうだ。子供だ。始めはちょっとした好奇心だった。でも現実になってしまった。笑えない。人を殺してしまった。
無動機殺人。
はじめはそうかもしれない。
一人殺した。
ノートでひとが殺せるなんて信じられなくて。
二人殺した。
あとはもう一緒だった。
何人殺した?
はは。忘れたよ。数えきれない。だってやつらは死んで当然の人間ばかりだ。いちいち覚えていられない。死ねば死ぬほど、この世は奇麗になっていく。時間が許す限り、ノートに名前を書き続けなければいけない。それは僕にしかできない、
生きているなら自分だけにしかできないことを。
──本当はすべての名前を覚えている。
殺した人間の数も。名前も。顔も。忘れようとしても記憶から消えてくれない。死ぬまで覚えているだろう。僕の背負う罪。覚悟を決めた。そのときから僕は知っていた。
いつか、僕もノートに名前を書かれる。
そのはずだから。
クククク……。
悪人をこれだけたくさん殺したら
悪い人間は世界におまえだけになるぞ
おまえも死刑だなぁ、ライト……
死神の嗤い声が木霊する。
耳の奥に潜み、ずっと消えなかった声。
「嘘だ!」
耐えきれず絶叫した。
「これはまやかしだ。全部、嘘だ! どうしてこんなでたらめを!」
Lの手を振り払い、頭を抱えてうずくまり、月は否定した。
Lに見せつけられた殺人犯たちの結末を月は知っていた。
Lが言いたいことはわかっていた。
爆弾魔→終身刑。
ビヨンド・バースディ→キラによる心臓麻痺で死亡。
キラ→死刑。
夜神月、死刑!
死刑!!
「僕は死刑になんてならない」
激しくかぶりを振って否定した。壊れた息をつぎ、こんなのは現実ではないと月は叫んだ。
「あれは僕じゃない!」
「ライトくん。あなた記憶以外に、どこに真実があるっていうんですか」
「こんなこと、おまえならいくらでもできる!」
「ちゃんと見てください。あれは高校生の夜神月です。ノートに名前を書いて、人を殺していた。そうですね?」
「ちがう……。ちがう、僕じゃないんだ!」
「月くん、よく見てください。あれは」
「ちがうっ……! ノートに名前を書いたくらいで本当にひとが死ぬなんて、そんなはずがない。思わないだろう普通。
仮にこんな武器が手に入ったら、自分にやれることをすべきだって思うんじゃないか?」
叫ぶと、Lは今度こそ本当に嗤った。
「そうして、過ちを止められず、人を殺し続けることを選んだことこそが、“キラ”が“キラ”と呼ばれる所以なんです」
月は奥歯を噛みしめた。
突如、強い殺意が沸き起こる。
殺してやりたい。
Lを今すぐ殺したい。
できないのであればLの目を潰してしまいたい。
Lの目を見えなくして、記憶を抹消して存在ごとすべてを闇に葬ってやる。
僕の邪魔をするな。
思ったとき、ふいに白い手が伸びてきて、月の顎を掴んだ。
驚いて身体を引くが、強引な手にぐいっと顔を上げさせられた。腰をかがめたLと真っ向から視線を合わせることになる。
黒い目は冷静に月を分析していた。
「そんなに私を殺したいですか?」
「……ちがうよ、まさか」
見透かされまいとしてとっさに微笑する。
Lは目を細めた。
「月くんは本当にガードの固い人ですね」
Lが手を離して、立ち位置を横にずらした。
そこに現れたシーン。
月は、息を呑んだ。
広い空間。
ブレザー姿の高校生の月は消えて、薄明かりのなかにぼんやりと白く浮き上がるベッド。
その上で裸になり手足を絡ませて睦みあっていたのは、大学生の月とLだった。
「っ、ん、……あ、」
組み伏せた細い体。好き勝手に操れるおもちゃで遊ぶように、月は仰向けに大きく左右に開いたLの足を抱えなおして、入れやすい体位を推しはかっていた。
月が自身の陰茎をつかんで、Lの尻の奥に宛がい腰の位置を定めると、ひとさし指をしゃぶっていたLは上気した目元を緩めてわらった。
目を合わせて、月も小さく微笑んだ。
まるで恋人同士のように二人はいとおしげに互いを見つめる。
こんなときだけだ。
二人は空々しく美しい微笑みと慈しみを相手に向かって傾け合う。
「あ、ライト、く……っ」
すこしずつ、屹立した固い性器がLの中に押し込まれる。先端を含まされて、月の腕に腰を抱き寄せられて奥まで押し込まれると同時に、Lは内側を熱が貫く感覚にひきつった嬌声をあげて、全身をブルリと震わせて吐精した。
「あ……は、ぁ……、あぁ……」
小さな絶頂。愉悦にひくひくと後孔を痙攣させながらシーツを握る。
乱れた息使いは少し離れた所にいる月にまで響いて聞こえた。
タナトスとエロスが入り混じり、場違いであるにもかかわらず性感を内側から刺激してくる。
Lの狭い内側に包まれて締め付けられる感覚を思い出して身体が熱くなる。
だいじょうぶ?
月が掠れた声でたずねる。
うん、とLが頷く。
Lを相手に、こんな声を出していたなんて気付かなかった。月は眉をしかめた。
もっと、深く入っていい?
羞恥心に耳が熱くなる。
うん。
頷いたLの表情は快楽に惚けていた。
やけに素直にLは首肯するのだ。それはセックスのときだけ。いつもLは与えられる快楽に対して従順になろうとする。
相手に対する疑惑とはかけ離れたところで、純粋に、享受できる愉悦の最後のひとしずくまで飲み干そうとする。Lは享楽的なのだろう。
内側からの熱に潤んでとろけた半眼を閉ざしたLは、全身を月に預けた。Lの力が抜けきったところで、月は腰を動かした。
「ん、あっ……」
一度、抜けてしまう寸前まで引き抜き、入口の浅いところを刺激する。Lの爪先がギュッとまるくなる。足を月の腰にまわして、自分の方へ引き寄せる動き。少し笑って、Lの足を抱えなおした月は、そのまま腰をつよく打ちつけ始めた。
「ああっ」
狙いをつけて深く抉ると、Lは仰け反り、かきむしるようにシーツを掴んだ。赤い口が大きく開いて、身も世もないと云った風情で、黒い髪を振り乱して喘ぐ。
「ん、あっ、ああ」
腰の動きが激しくなる。出入りする熱の塊がLの体内にすべて消えると同時に肌がぶつかる音がして、それは乱れた吐息と混ざり合い、浅ましく部屋に響く。
奥を突き上げられて、Lは背を逸らした。白い首筋が露わになる。シーツをつかむ腕が痙攣するようにのたうち、骨ばった肘の鋭角は影をつくる。
華奢な身体を壊すように、月は大きく腰を動かして貫いた。
「ライ、ト、くっ」
「竜崎、竜崎……」
「あっ、ん……ん、あ、あ、」
月の背中にからみついた足がほどけて何度も宙を蹴る。上気した頬。眉間に皺を寄せた、悩ましげな表情。月が、Lの奥深いとこばかりを執拗に犯しはじめる。
内側を擦られる愉悦に身悶えて、Lは甘い悲鳴を上げた。
きもちいい?
息を弾ませながら、優しい声で月は問う。いい、いい、もっとして、と答えが返る。もっと強い方がいい? 浅いところがいい、深いところがいい、何処をどうしてほしい? 冗談を言うように矢継ぎ早に問いかける。その間も休まず腰を動かしている。Lは目を閉じたまま、泣きじゃくる幼子がしゃくりあげるように息をして、呟く。
もっと奥を、つよく、して。
いいよ。
ひざ裏を押し上げて、腰を抱え直し、さらに抽挿を深くする。濡れた陰茎が腹の間で震えている。繰り返される前後運動。そうして茶色の髪が汗ばんだ額にはりつくころ、感じ入ったLの表情を見つめ続ける月の顔には、隠しきれない殺意が滲んでいた。
あ、あ……
鼻にかかったような嬌声。半開きの唇からこぼれおちる。嗤いながら月は腰を動かす。ぎゅっと閉じようとするところ押し開いて擦りあげる。
気が遠くなるような深い快楽。
はあっ……はあっ……
Lの身体の内側は、骨ばって固い外側と違ってひどく柔らかくて心地よい。何度でも挿入して吐き出したくなる。そうして月はLとのセックスを楽しみながら考える。
Lを殺そう。
どうやって殺そう。
同時に焦燥を募らせる。
はやく殺さなくては。
この男はいつか僕にたどり着く。
その前にどんな手段を使ってでも殺さないと。
早く殺さないと。
そうしないと僕が負ける。死刑台に送られる。
僕が、Lに──
これが僕か。
ベッドの上で睦みあう二人を放心したように、ぼんやりと見つめる月へ、Lが語りかける。
月くんが、私を殺した理由について、いまなら理解できるつもりです。月くんは自尊心の強い、子供だ。そんなあなたの矜持を私の存在が傷つけた。おそらく、ノートの特異性を利用すれば、誰にも見つかることはない、死刑台に送られないという絶対的な自信があったはずです。けれど私は、キラを見つけてしまった。そうして見つけてしまったら、あとはもう殺し合うしかなかったんです。どちらかが生き残るために。
月くんとの気持ちいいセックスや、手錠でつながれた生活のなかで培った友情に、私がほだされれば結末はまた違ったのかもしれませんが、残念ながら、私は、私でした。懐柔できるはずもない。
恨むべくことではありません。月くんは、月くんが生きるために私を殺した。私は、私が生きるために、月くんを死刑台に送ろうとしていた。犯罪者を追っているときだけ、私は、生きていると感じる、命を感じている。シンプルな理由です。法治国家における生存競争のようなもの。犯罪者と探偵はどちらかが死ぬまで、追いかけ合うものですね。さながらルパン三世と銭型警部でしょうか?
……ああ、すみません。少し冗談が過ぎたようです。あのふたりはきっと老衰で死ぬまでおいかけっこをしているはず。私たちとは違いました。私たちは、互いに肉薄して、殺し合おうとしていた。
殺さなくてはいけなかった。
月はうなだれたまま、かぶりを振った。
「L。おまえはやっぱり、何も分かっていないよ」
Lが小首を傾げる。
そうですか?
「そうだよ」
どうしてでしょう?
「キラを理解しろとは言わない。でも人の心を理解しろ。生きた人間の──僕の。僕が、何故おまえを」
言いかけて、途中で口を閉ざし、月は沈黙した。
Lも続く言葉を言及しようとしなかった。
長い沈黙を味わいながら、月は廃墟に足を踏み入れた時、空気がとっくの昔に死んでいたことを思い出していた。
顔を上げてLを見る。
「──廃墟は、おまえ自身だろ?」
訊ねれば、どうでしょうねと曖昧に首をかしげてLは正しい答えを返さなかった。そうだと思うのであれば、そうなのかもしれませんと呟く。月は少し考えて、問いかけ方を変えた。
「僕を見つけた鬼は、いま何処にいる?」
訊ねると、Lは、自嘲気味に口元を緩めた。
忘れないでください。鬼は死にました。隠れていた子供を見つけて食べようとしたら、逆に殺されてしまったんです。鬼はいったいどっちだったんですか。ひどい話です。
月は微かに嗤った。
そうだったな。
僕が殺したんだ。
鬼を。
“L”を。
レムに名前を書かせて、この腕のなかで息絶えるのを待った。
何もかもすべて。
僕がやった。
僕が。
僕が。
僕の。
L
──では月くん、そろそろ最後の部屋へ行きましょう
そう言ってLは月の手を取った。
第2の鬼が待っています。鬼さんこちら。手の鳴る方へ、です。
示し合わせて出逢うところで生存競争の知恵比べ。
そこへ行くまでせめて手ぐらいはつないであげます。振り払わないでください。そんなことしたら、もう知りません。
言われて、月は小さくわらった。
「僕を子供扱いするな、L」
月くんなんか、私から見れば子供ですよ。
そう言ってLは小さく唇を曲げていた。
「子供じゃないよ」
月はゆるく首を振った。
「だから覚悟を背負って僕自身の命の責任を取るために、生きるんだ」
(いまは何年の何月ですか?)
ふいにLの質問が蘇る。
月はいまさらのように答えを思い出していた。
いまは、二〇一〇年の一月。
決着の時だった。
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