注意:暴力描写有
廃墟
がたりと音が鳴り、月は肩を震わせて顔を上げた。すぐ目の前のドアから一人の男が侵入してきた。
男は右腕でひとりの女を引きずっていた。
ぼろぼろの部屋の風景が一変した。次に起きる事件の予兆。バスルームが現れる。清潔な印象を与えるオフホワイトの内装。丸みを帯びたバスタブには、すこし黄ばんだシャワーカーテンが掛っていた。バスタブの隣にはシャワーブースが設えてある。
女は、柔らかそうなシルクのナイトウェアを着たまま、身動きの取れない状態に拘束されていた。ただ、腕だけが不自然に解放されている。
「あれは──」
月は、男の顔に見覚えがあった。
ひどい猫背の体躯。
眼の下にくっきりとした隈。黒髪。素っ気ない無地のシャツ。洗いざらしのデニム。
── “L”
反射的にLを見た。
男は、Lに似ていた。しかしLよりもさらに線の細い印象である。臆病で神経質なトカゲのような風貌だ。
記憶の底がざらりと擦れる。男の名前をかつてデスノートに書いた気がしたのだ。ささくれた指先の傷に触れたときのような小さな痛みが胸に走り、月は記憶の引き出しを探って、その名を呼び起こそうと試みた。
そのときだった。Lに似た男は、引きずっていた女をその場に投げ捨てた。女はどさりと音をたてて倒れ伏す。ぴくりとも動かない。すでに死んでいるように見える。男は、床に倒れた女を静かに眺めた。そして、もう一方の手に握っていた鈍器を、女の腕をめがけて振り下ろした。
低く鈍い音。骨の折れる音がした。立て続けに何度も激しく殴打する。腕が赤紫色に変色し、全身が痙攣する。
「やめろ!」
過去の出来事であることを承知の上で、月は叫んだ。女が傷つけられている。黙って見ていられるわけがない。立ち上がり諌めようとした月を、Lが制する。
「無駄ですよ」
「L」
「ここはBのフロアです。Bの記憶が再生されているだけです」
「だけど!」
「見るに堪えないと云うのであれば、次の部屋へ」
混乱しかけた聴覚がやや遅れてひとつの英字をとらえた。
「──B?」
それが男の名なのか?
聞き覚えがない。
いや違う。Bというのは俗称だ。
新聞の記事に掲載されていた。月は男の名をようやく思い出した。
Lが“B”と呼んだ男はビヨンド・バースディ。
月が──キラが裁いたLABB事件の殺人鬼!
「思い出しましたか」
月の表情が一変したのを見て、Lはうなずく。
「LABB殺人事件の犯人です。
ビヨンド・バースディは、第三の事件を起こしたのち、美空ナオミに逮捕され、カリフォルニア州の刑務所で服役していました。
しかし二〇〇四年一月に、心臓麻痺で死んでいます」
「……」
「月くん、いまは何年の何月ですか?」
「……」
「いまは、あなたの世界は?」
わざとらしい訊き方に月は奥歯を噛んだ。
「忘れてしまったんですか?」
Lが重ねて訊いてくる。
そうではない、もう、いい。聞きたくないのだ、と首を振ったとき、ずきりと激しく目の奥が痛んだ。こみあげる感情を精神力でねじ伏せて、深く息を吸い、吐き出す。
がつがつと骨を砕くほどの強烈な殴打の音はつづいている。女性の喉から、獣じみた低いうめき声が漏れた。意識をとりもどしたのだろう。
拘束された脚が陸に打ち上げられた魚のように跳ねている。
「──やめろ」
目をそらして低くつぶやいた。声は我知らず掠れてしまった。吐き気がした。
Lを振り返る。
「もう、いい」
「移動しますか」
かぶりを振り、月はつぶやいた。
「これは夢だ」
「……」
「これは夢だ。こんなことがあってたまるか。おまえも、僕も、全部、夢のなかにいるんだ」
「……月くん」
「だから夢から覚めればいい」
「月くん」
「目覚めろ」
「どうして」
「何もかもでたらめだ。どうして僕をこんなところへ連れてきた」
「……」
「僕を、目覚めさせろ、L!」
目を閉じて強く念じる。目覚めろ、目覚めろ、目覚めろ。夢の中で、これは夢であると自覚しているとき、月はいつも解放の呪文を三回となえて深呼吸をする。
夢を見ている状態こそ、精神の表層が外界からの刺激を受けやすくなっている証だ。目覚めることなど容易い。深呼吸をして、目を開いた。
月の心臓が音を立てて軋んだ。
開いた目の前で、ビヨンド・バースディが、女性の頸動脈にナイフを押し当てていた。息を呑んだ直後に水飛沫が頬にかかった。
それはぞっとするほど冷たかった。
バスルームに鉄の匂いがひろがる。女の頸から噴出する血が水溜まりを作る。死に逝く命。月は表情を歪ませて、目を閉じた。
罪のない人の死に様を見ることは苦手だ。胸が痛い。強く瞑った目尻に涙が滲む。それは月が次に瞬きをした時。
白い雫となって頬をゆっくりと伝った。
「……解放しろ。L」
Lが小さな溜め息をつく。
「難しい注文ですね」
「おまえがこんなところへ僕を連れてきたんだ。おまえだったら、元の世界に戻せるはずだぞ」
がたんと音を立てて、鈍器を放り出し、ビヨンド・バースディがバスルームを出ていく。
しばらくして戻ってきた手には、ギラギラと鋭い光を放つ、ノコギリが握られていた。それを見た瞬間、月は堪えきれず、悲鳴じみた叫び声を上げた。
事件の内容を思い出したのと、この先、何が起きるか正確に悟ったのは、ほぼ同時だった。
「もういい! 悪夢はもう十分だ。はやく、もとの世界に戻せ」
「月くん、落ち着いて」
「僕を戻せよ」
「ライトく」
「おまえのせいだぞ、L」
「勘違いしないでください」
Lがふいに声を低くした。月を見つめる。
「私のせいではない。ここは私が望んだ行き先であったわけではない。私は月くんが向かおうとしているところへ、連れてきただけです」
意味がわからないと月は首を振った。
「僕は何も言っていない。お前が誘ったんだ」
「それはちがいます」
Lは見たこともないほど厳しい表情で月を見た。そして切りつけるような声で月を否定した。
「私は始めから知っていました。月くんがどこへ向かおうとしているのか。どのような光景を目指しているのか。見たことがあるからです。
月くんのような犯罪者などごまんといる。無動機殺人のなれ果てだ。動機は自分自身にあった。
つまり足を止めることができなかったのは月くん自身の問題だ。
月くんは、それを止めてほしいと願っていたんですか? すみません、もう私にはそれが出来ない。もっと以前であれば止められたかもしれませんが、今はもう難しい。
何もできず、すみません」
「……」
「こういうことなんですよ。人殺しのやっていることなんて。どれも結局おなじでしょう。行きつく先は。
そういうことぐらい月くんだって本当はわかっていたんじゃないですか?」
「……ちがう」
「人の死はどれも生々しく凄惨だ。そして個人が断罪するものではない」
「おまえはなにもわかっていない」
「月くんはキラを肯定してほしいんですか?」
「そうじゃない。ただL、おまえはキラの“何を”理解しているつもりなんだ?」
「まさか」
と言って、Lは一度口を閉ざした。
侮蔑のまなざしを月に向ける。
「キラは理解されたい人間ですか。まさかこの“私”に?」
「……」
月はその問いにこたえられず、沈黙した。
──理解など。
されるべきことでないと知りながら。
「違う。そうじゃなくて」
月は呟いた。
Lが首を振る。
「何を言っているのか、わかりかねます。私はLです。“私”が”拒絶することこそ、“キラ”への最大限の理解です」
足元の。
泥濘を覆い隠したその下に、底の見えない亀裂が横たわっている気がしたのは始まりのときからすでに。
沈黙した月から目線を外して、Lは静かに月の手を取った。
「そろそろ──次の部屋行きましょう」
ゆっくりと歩きだす。
ビヨンド・バースディの脇をすり抜けて狭いバスルームの戸を押し開いたとき。
ごり、と鈍い音が月とLの背後で鳴った。
ビヨンド・バースディが女の解体を始めたのだ。
見届けずLは扉を閉ざした。
バタン。
そしてひとつの世界が終焉を迎える。
あとを振り返ることなく、次の部屋へ。
そこは最初の部屋と同じように広々とした倉庫のような空間だった。
Lの指が前方を示す。
うながされて視線を向けた。
「ここは、月くんの部屋です」
映し出された光景に、月は言葉を失った。
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