廃墟
風景が一変したのは、男が建物の内部に向かって一歩足をすすめたときだった。淡い乳白色に包まれた廃墟の内装が、煤けた色の古めかしい煉瓦造りの建物に変貌した。
天井の灯り取りを支えている黒鋼のアーチ。広々としたホーム。厚いコートとマフラーで着ぶくれた婦人や大きな旅行用のキャリーを引いている背の高い男性、父親に手をひかれている小さな子供など、大勢の乗車待ちの人々が立っていた。人いきれと喧噪。そして列車の到着を告げるアナウンス。
『失礼』
周囲の変貌に驚愕して、呆然と立ちつくしていた月は、背後からExcuse meと短く声を掛けられて咄嗟に横に退いた。同時に、例の男も立ち位置を移動した。いつのまにか、ジャンパーの男は、月の隣に立っていたのだ。「失礼」と声をかけてきた銀髪の初老の男性が、ジャンパーの男に向かって目礼して、月の横をすり抜けていった。
月とLは、駅構内からホームへと続く、通路の出口のすぐわきに立っていたのだ。
「ユナボマーという爆弾魔をご存知ですか」
Lが訊ねる。
「……カジンスキーだったかな、本名は」
あまりにも有名な名だ。知らないはずがない。アメリカ史上、最悪の爆弾魔。
「そうです。セオドア・カジンスキー。現代テクノロジーの呪詛を新聞に掲載させるために、爆弾を利用した男。そこにいる男は、ユナボマーの思想に傾倒した劣悪な模倣犯です。当初は、同じ手口で、大学や空港を狙い犯行に及んでいましたが、五回目に方法を変えました。世間を騒がせること自体に酔ってしまった。血を見たくなったんです。より高度な爆弾の製造技術を用い、遠隔操作できる爆弾を作り上げて、バークレーのメインステーションをターゲットにしました。通勤ラッシュの時間帯でした。そのために五十六人が死亡しました」
この後、捕まって終身刑になるんですけどね、と付け加える。
Lが古いレコードを再生するように淡々と告げる傍らで、男は無言でホームの奥へと歩き始めた。歩くたびにちゃらちゃらと不自然な金属音が響いた。ジャンパーの懐のふくらみ具合から察するに、そこに仕舞われた何かが鳴っているようだ。
TRASHと書かれた黒いアルミ製のゴミ箱に近づいていく。
男がジャンパーの懐から小さな小包を取り出した。こぶしよりも少し大きめのサイズ。新聞紙で包み、ガムテープをぐるりと巻き付けた、粗雑な代物だ。男はそれをゴミ箱に放り込み、小さくウインクすると、踊りだしそうなほど愉しげな足取りで去って行った。
「……L、まさか」
信じられない心地で、かたかたと揺れているゴミ箱のアルミの蓋を見つめる。Lは小さく頷いて、踵を返した。
「月くん。ここを離れましょうか。爆発します」
爆発します。
その一言で月の全身は総毛立った。
「……避難を」
呟いて、辺りを見回す。
警備員、駅員、誰でもいい、緊急的に駅の利用客を避難させる術を知る、誰かにこの状況を伝えなくては。爆発する前になんとか、冷静に対処して……いま、それをできるのは、状況を知っている、僕たちだけだから、僕がなんとかしないと……と、そう思った。
直後に、はっとした。
七歳?
ひとつ目の事件、その時のLのセリフが蘇る。
(……『私が七歳の頃です』)
(『私の目の前で、自殺しました』)
女性の自殺について語ったとき、Lが言った。それはかくれんぼをしていた子供が偶然目撃した事件であったのだと。
──では、ここは。
時間軸ははたしてこの場合、何処にあたるのか。
爆発を回避することは、可能であるのか?
「L、ここは!」
思わず大声を上げた。立ち去りかけたLが、足を止めて月を振り返る。
「何を怒鳴っているんですか、月くん」
「だって……」
「行きましょう。あちらにドアがあります」
「おまえ、だって……」
「……何ですか」
「この爆弾は、どうするんだ……」
混乱する月に対して、Lは侮蔑に近い眼差しをむけた。
「何を言っているんですか。この期に及んで何をしようと云うんですか。五十六人が死亡する、重軽傷者は百人以上。回避することはできません」
厳然と言い切り、Lは目線を少し横にそらして考えた後、やおら月の腕を掴んだ。
月は、腕を強く引っ張られて、とっさに振り払った。
五十六人。
バークレーのメインステーションをターゲットにした、五回目の爆発による、死亡者数。
「……その人数」
「鈍いですよ、月くん」
「……冗談だろ」
「だから回避できないんです。私たちには何もできない。──どうしますか。もうすこし見ていきますか。私はいいんです、ここにいても。見たことがある。第五の爆破はFBI捜査員の尾行中に起きました。捜査員にはカメラを携帯させ、尾行させていました。回収できたテープに一部始終が映っていました。──月くんはどうしますか?」
黒い目は突き放すように、冷ややかに月を見つめていた。
「月くんはキラだ。しかし実際に見たことはないでしょう。百人からの人間が一斉に木端微塵になるんです。そういう光景を直視したことはないはずだ。いずれ見慣れる。でも、いまはまだそうではない。……まさか、この事件がリプレイされるとは思いませんでした。さすがに現段階の月くんには刺激が強すぎます」
「……」
「──こちらへ来なさい」
月の腕を掴んで歩き出す。強引にホームの端へ連れて行かれた。小さなドアの中に押し込まれる。そこは壁の内装も剥げてぼろぼろになった、小さな部屋だった。
ドアが閉じられる直前。
月の背後で、気配がした。
音もなく明確な映像もなくただひとつの世界が消滅した気配だった。
閉ざされたドアに背をあずけた月はずるずるとその場にうずくまった。膝が抜けてしまったのだ。Lのセリフはそれだけ迫力があり、真に迫っていた。
否、これは真実だ。
青ざめた顔の月を見て、Lが首を傾げる。
「大丈夫ですか、月くん」
「……腕、痛い」
「あ、はい。すみません」
月は、解放された腕を服の上からさすった。腕が小刻みに震えていることがわかった。背後の扉のむこうは静まり返っている。恐ろしいほどの静寂だ。わかっている。ひとつの世界が消滅した、と感じたのは言葉のまま、その通りなのだろう。
ユナボマーを気取った殺人鬼が現れた瞬間、周囲の光景が一変したように、ふたたび世界は、元に戻った。そのはずだ。そう思うがドアの向こうを覗き込む勇気は、月にはなかった。
「ちくしょう」
心臓が激しく鳴っている。シャツの上から胸を掴んだ。肺がひどく重たく感じられて、息が苦しくてしかたなかった。
「一体、──なんなんだ。ちくしょう」
ドアに背をあずけたまま、視線を落とした。土埃が堆積している部屋の絨毯の上には、砕けた窓ガラスの破片が散らばって、くすんだダイヤモンドのような鈍い輝きを放っていた。どの部屋にも死の匂いが沈殿している。ここもそうだ。死んでいるのだ。
「何なんだ。ここはいったい!」
喘ぐように繰り返す。Lはこたえない。
なぜ語ろうとしない。
何のために沈黙を貫く。
月は苛立ちのあまり、悲鳴のような声で怒鳴った。
「こたえろ、L!」
Lが短いため息をつく。
月の足元にしゃがみこんだ。
顔を覗き込む。
奥深い洞窟のような黒い目が、月をとらえた。
Lは静かに口を開いた。
「あそこは、私のフロアです」
「── “私”の?」
視線を上げると、目の前にLがいる。無表情の黒い瞳が月をとらえている。目があって、月は、かすかにわらった。なにもおかしいことはない。ただ、狂っているな、と思ったのだ。そうしたらなんだか、笑えた。自分も。Lも。
狂っている。
月の瞳の奥を覗き込むように顔を近づけて、Lは小さく首をかしげた。
「私の世界、私の記憶の部屋です。記憶はランダムに映し出されます。鮮明な記憶こそ、頻発する傾向があるようですが、いつも同じものを見るわけではありません。今日はとびきり陰惨なイメーばかりですね。月くんと一緒にいるせいでしょう」
「おまえ、正気か」
「大掛かりな冗談です、セッティングにとても苦労しました……と言いたいところですが、そうではありません。目にしたことだけが真実です。月くんは、目に見えないものを信じますか?」
「……」
「聡明な月くんのことだから、始めから理解していることだと思っています。説明を加えるなら、つまり、こういうことです。この廃墟には、個人の記憶が仕舞われた部屋があります。部屋は無限に広がりつづけ、記憶が再生されつづけます。私たちが一緒に見てきたのは、私の部屋、私が過去に目撃し、携わってきた事件の記憶です」
「……」
「よく見ておいてください」
つぶやきながら指を口に含んだ。指に吸いつき、しゃぶる。ぴちゃぴちゃと響く音がひどく耳ざわりだった。
「これが、幼いころから、私が見続けてきた光景です。月くんは──、いえ、キラは恐らくこういう光景を今後も生み出し続けるんですね」
見開いた月の目にLが映る。
しかしLの黒い瞳に、月の顔は映っていなかった。
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