廃墟
近づいて見上げた建物は遠目に見るよりもずっとおおきいものだった。
重たい鉄鋼の扉のうえには、アーティストを気取った何者かが巨大な瞳孔のスプレーのイラストと、
それを憎んだ何者かが黒いスプレーで塗りつぶした跡が残っていた。
太陽を模した瞳孔は長い睫毛が触手のようにうねり狂い、近づく者を巻きこもうとするように四方八方へと伸びている。
この目は何かに似ている、と月は思った。
その直後、強い圧迫感が肺にのしかかって吐き気を覚えた。
Lは、猫背を一層丸めて、扉の鉄錠の状態を確かめるようになにやらがちゃがちゃといじっている。月の青ざめた表情に気付かない。
「月くん、開けるのを手伝ってください」
「……」
「この扉、重たくて」
「……ああ、うん」
胃のむかつきを抑え込んで月は頷く。
Lの脇に立ち、塗料の剥げた支柱に触れて眉をしかめた。今にも崩れるのではないかと心配になるほど、ぼろぼろに錆びついた鉄骨。重たそうだ。
「早く」とLにせかされてしぶしぶと従い、力を込めてゆっくりと扉を左に引いた。
軋む音を響かせて扉が開かれる。
その途端、視界が一面の淡い乳白色のひかりにつつまれた。
重たい鋼鉄の扉の向こうは、放課後の学校の体育館のように閑散とした広い空間だった。その空間全体がうっすらと光っているように見えた。
恐らくは空気中に堆積した埃によって外界のひかりが建物内で乱反射しているのだろう。生温かい空気。なのに閉め切られた内部はどこか冴え冴えとした気配に満ちていた。
Lが歩きだしたのを追って、ゆっくりと足を踏み入れる。
天井の剥き出しの鉄骨は規則正しい配列のように組みこまれて、屋根の斜面を支えていた。建物の中、窓から窓へと横並びに吊るされている裸電球の
幾つかはひび割れて、幾つかは形すら無くして、すべてはひかりをともすことがない。ただ廃墟の中は外界からの明かりによって白く明るく淡い色にひかっていた。
砕けたガラスの破片が床に散らばって埃をかぶっている。周囲を見回せば、隅に壊れた台車が積み上げられていた。伸びきったタイヤの山。
ここはかつて倉庫として使用されていたのだろう。
窒息しそうなほどの静寂と、停滞した時間が膿み果てて、埃っぽい空気がとうの昔に、建物そのものが死んでいることを無音で伝えてきた。
「ここで何を」
月の喉は渇いていた。
おかしな具合に声が掠れてしまった。意識的に唾を呑みこみ言い直す。
「ここで何をするんだ」
Lは、くちびるに人差し指を当てて幼子をあやすような表情で静かに、と指示した。指先ひとつで静寂を手繰り寄せ、
その指先をおろしてデニムのポケットに押し込む。
建物の入り口に立ったまま、ぼんやりと宙を見つめる。
「もう少し待ってください。すぐに始まります」
声をひそめて口早に告げる。
「待つ?」
何をだ。
くちの中がやけに乾く。
からからにかわいた舌が口内にひっかかってうまく発声できない。
「L」
だから月は、短い単語ばかりを扱って訊ねた。
単語は鋭角的に空間にこぼれた。
「何を」
「……」
「待つ」
「見ていてください」
「だから、何を」
「ですから」
「……」
「この光景を」
Lは淡々とこたえる。
そこに感情の付け入る隙はなく。
「これから起きる事件を」
と。
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