廃墟
リムジンが停車した気配を感じて月は目を覚ました。
いつの間にか眠ってしまった。
シートの隣にはLがいる。なのに眠ってしまったのだ。すこし油断が過ぎた。
それは些細な失態だった。気に病むほどでもない。しかし月の眉間には自然と皺が寄った。
Lを相手にしているときはどんな小さなミスも非常に許しがたく感じる。波打つ感情を奥歯で磨り潰し、内省して心のなかで舌打ちをした。
月は、険しくなった表情を改めて、寝ぼけ眼を取り繕いLを見る。
「……着いた?」
「はい」
「降りていい?」
「そうしてください」
眠っていたせいで時間の感覚が狂っているようだ。随分遠くまで来たように思うのだが、どの程度、どのあたりまで来たのか皆目見当もつかない。
月の体の中から時間だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。
窓の外に目をむければ、リムジンが停車しているのは木立の間に作られた駐車スペースだった。
大学からの帰り途、Lに「少し遠出をしませんか」と誘われて、さしたる断わりの理由も見当たらなかった月は、促されるままリムジンに乗り込んだ。
それから、かろうじて、と表現するに相応しい程度に舗装された道を走行して、リムジンは雑木林の中を山の奥へと目指していたようだ。
行先は教えられていなかった。
訊ねても、訊ねても、はぐらかされるばかりでこたえはかえらなかったのだ。そうして到着したここは── 。
Lが下りたのとは反対側のドアを押し開いて、降り立ったところ、幾重にも折り重なった落ち葉の絨毯が敷かれていて、靴の裏を柔らかく受け止めてくれる。
月は乾いた音を立てる足元を見つめて目を細めた。
「……ここは?」
「米軍の施設跡地です」
「……」
「廃墟ですよ」
振り返って睨むと、察したLは、ポリポリと頬を掻いた。
「大丈夫です。手筈は整えています。米軍管理下の敷地ですが、侵入したからといっていきなり射殺されたりしませんよ」
「……ああ、そう。だったらいいけど」
恐ろしいことを事も無げにつぶやくLを見つめて、月はあきれて肩を落とした。
Lの無茶は常からのことだ。“世界の砦”はいったいどんな手を使って法を掻い潜っているのだろう。
天網恢恢疎ニシテ漏ラサズなんて大嘘だ。いつだってダダ漏れ。
存在するのは死神だけで人間が求めるような天の”神”はいない。だから月はそれになろうと思ったのだ。
ただLがそう言うのであれば大丈夫なのことだけは確かであって、月はリムジンのドアを閉めた。
「で、どうするんだ」
「あそこへ行きましょう」
Lが、月の背後を指差した。
なにかあっただろうか?
と、月は思った。そこには何もなかったはずである。
疑問に思いながら振り返り、背後にぎょっとして後ずさった。
月の背後に巨大な建物が忽然と現れたのだ。ついさっき月がその方向を見た時はなかったはずである。
静けさのなかに聳え立つ不気味な廃墟。死した巨大な怪物と評しても差し障りのない佇まいだった。言葉を失い月は立ち尽くした。
一見して鳥肌が立つような恐れを感じた。容易に足を踏み入れてはならない場所であると本能が嗅ぎ取る。
しかしLは歩きだしている。Lがそこを目指すと云うのであれば行くしかない。怖気を悟られまいとして表情を引き締めた。
「どうしましたか?」
見透かしたようにLが訊いてくる。
「何に驚いたんですか」
「……別に」
「まるで死神にでも逢ったような顔をして」
内心で息を呑んだ。
見えているのだろうか、リュークが。
疑った時、リュークの姿が消えていることに気付いた。
何処へ行ってしまったんだろう、あいつは── 、人間に憑いた死神はつねにその人間の── つまり僕の背後にいなくてはいけないはずなのに、
と狼狽する。勿論表情には微塵も出さない。どこへ行ってしまったのだろうとさりげなさを装って周りを見まわした。リュークは本当にいなかった。何処へ?
しかしその疑問を追及している余白はなかった。Lが月を見つめているのだ。
「わかった。行こう」
告げると、Lは黙ったまま歩き出しかけて途中で立ち止まり、半身になって振り返り月を見つめた。
その姿をどこかで見た気がして月は記憶を探った。それは月がリムジンのなかで眠ってしまった時に見ていた夢のなか、
瞼を閉じた暗闇の世界に浮かび上がったLの姿だった。夢のなかのLはデニムのポケットに手を入れて無言でこちらを睨んでいた。
なにかを拒絶して切り捨てるような強い目つきだった。
既視感に軽い眩暈を覚える。
瞼を一度ぎゅっととじ合わせた後に開けば、すでにLは建物へと歩きだしている。溜め息を吐き出した。
どうしてだろう。
L。
L。
僕たちは── 。
落ち葉でおおわれた柔らかい地面。
泥濘を覆い隠したその下に、底の見えない亀裂が横たわっている気がした。
そのような不確かな想いは告げるべきことでもなく、月はだまって口元を引き締めた。
「……」
落ち葉の絨毯を踏みしめる。
さく、さくと足音が響く。
月は黙ってLの後に続いた。
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