さよならさんかく
1.さよなら三角
それは絹を裂くような悲鳴── と云うよりは悶絶絶叫だった。
ぎゃあああああああ!!と突如玄関の方から轟いた妹・粧裕の絶叫は断末魔の悲鳴にも似ていて、
二階の自室でつくえに向かい黙々とデスノートに犯罪者の名前をつづっていた僕は
驚きのあまりうっかりとボールペンの先をノートの余白からはみ出して机の上にまで黒い線を引いてしまった。
くそっ……、やってしまった。……これ、なかなか消えないんだぞ。もうー。
「ああ、もう。粧ぁー裕ーう?」
意識の二割で机上の黒い線を気にしつつ、残りの八割で妹を案じる。
おっちょこちょいな粧裕がおかしな失敗をやらかしたり虫に驚いたりして、ギャっ! と叫ぶのはよくあることで、
ふつうの悲鳴ぐらいじゃ僕は動揺しない。が今回の声は鬼気迫るものがあった。兄として完全に無視することはできなかった。
巨大なゴキブリにでも遭遇したのだろうか、と頭の端で考えつつ、ノートを机の引き出しに仕舞いこんだ僕は部屋のドアを押し開いて階下に向かって叫んだ。
「どうしたー、粧裕!」
『お、ライト?』
のんびりと宙に浮かんでリンゴを齧っていた死神は、僕が急に部屋を出たので、
あわててまだ半分以上残っていたデカすぎるリンゴを口のなかに放り込む。が、大きすぎたために、のどに詰まらせ、う、が、んぐっと身悶えはじめた。
リュークは僕以外の人間には見えないけれど、リュークが食っているリンゴ自体は見えてしまうので僕を追いかけるために大慌てで胃袋に仕舞い込んだわけだ。
死神が地上に留まるためにはノートを持たせた人間のつねに背後、つまり僕の背後に付き添っていなければならない。
ご苦労なことであるが、僕と暮らしていく以上、そちら側のルールとこちら側のルールともに最低限のルールは守っていただかなくてはならない。
『ふうう〜〜。死ぬところだった』
と云うわけで喉仏を風船のように膨らませてじたばたとやっていた死神リュークは、なんとかかんとかリンゴを呑みこみ終えて溜め息をついた。
おまえは拳銃であたまをぶち抜かれようとも死なないんじゃなかったか? リンゴの窒息死は、あり得るのか(むしろ本望であるかもしれない)。と内心でツッコミつつもリュークを無視して僕は階段を駆け下りた。
『あ、おい! 待ってよ、ライト〜〜』
出遅れてしまった死神が情けない声を上げる。
待つ? と言われて、はははと笑った。
馬鹿だな、リューク。
待つ気など、毛頭無し。
とりあえず早く追いかけてこい!
追いすがる死神を無視して、僕は、声の方、玄関へと走った。
* * * *
玄関は、階段を降りたすぐ左手に位置している。階段の途中で足を止めて階下を覗きこむと、放たれたドアの向こう、
門扉まで続く、薄茶色のタイルが敷き詰められたアプローチの手前の石台に、水玉のスカートの端が見えた。
スピードを緩めて慎重に下段しつつ、様子をうかがう。
ハイソックスにつつまれた華奢なふくらはぎが見えてくる。僕の妹のかわいい足。形のいい口頭部も。
「……粧裕?」
廊下に半歩踏み出して、階段の手すりに手をかけたまま、そっと声をかけた。
途端にはじかれたように、天然の真っ黒な髪のポニーテールが揺れて、粧裕がふりかえる。
兄の欲目を差し引いたとしても、粧裕は、かわいい。そのかわいい顔を紅潮させ、つぶらな黒目に涙をにじませ、色白の鼻をトナカイのように赤くして、粧裕は、ベソをかいていた。
「お兄ちゃん!!」
僕を見た瞬間、悲鳴にも似た声で叫び、ぱっと駆け寄ってくる。ハイソックスの足につっかけたサンダルを脱ぐことも忘れて僕の胸にとびこんできて、
粧裕を抱き止めた僕は、勢いのあまり、かるくよろめいてしまったほどだ。
腕のなかにすっぽりと収まってしまう華奢な肩。妹の動揺を宥めようと、僕は、その背中を強く抱きしめて、とんとんと、やさしく叩いてやった。
「大丈夫だよ。粧裕」
できるだけ、穏やかな声で話しかける。
「どうした、何が起きた?」
まずは混乱を鎮めて、落ち着かせないと。ひくひくとしゃくりあげて震えている小さな肩にかかる艶やかな黒髪。
妹の髪からは、シャンプーのいいにおいがした。(なんて鼻を利かせている場合ではなく)。粧裕は、ひどく恐ろしいものを見たようだ。
いったい何を── と、思ったとき。
ククク、とリュークの低い笑い声が、頭上から降ってきた。ようやく追いついてきたらしい。
背後を振り返って、思わず、ぎょっとした。
なぜならリュークは、ジュエリーショップでおねだり攻撃をしてくる女の子よりもキラキラした目で、玄関の外を凝視していたのだ。なんだ、
このキモチワルイ顔は……。ある種の戦りつを覚えつつ鳥肌を立たせた僕は、そこで察する。
開け放たれた玄関の外に、巨大なゴキブリどころの話ではない、なにか重大な異変が起きていること── 何かがいることに。
「おに、ちゃ……。あれ……」
粧裕の指が、震えながら外を示す。
「うん、ちょっと待ってな」
粧裕とリュークはいったい何を見ているのだろう。
警戒しつつ、僕は首を伸ばした。
しかし特に異変らしきものは見当たらず、アプローチの脇を飾る花壇がそよ風に揺れているばかりだった。なんらの変化もない。
もしかしたらもう何処かへ行ってしまったのかもしれない。ほっと胸を撫で下ろした。
「粧裕、何も」
いないじゃないか。
きっとどこかへ行ってしまったんだ。
ほら、春になって暖かくなると妙に増える露出狂の類の変態が僕の家のまえにいただけかもしれない。
リュークもキラキラした顔をしやがってなんだよ、ははと軽く笑い飛ばし、さらに首を伸ばした僕は硬直した。
息を呑んだ。
ようやく“異変”を発見したのだ。
その瞬間、僕の目はソラマメ以下の点になった。
え……と。
薄茶色のモルタル・タイルのうえに仰向けの状態で落ちている。
肌色の。
あれは……。
人間の、手、……だな?
「お兄ちゃん、どうしよう……」
ぐすぐすとしゃくりあげる粧裕の肩を抱きながら、僕は少しずつ足を動かして、外がよく見える位置へと移動していった。
「どうしよう、私」
引きずられていることに気付かぬほどに動揺している粧裕は、
硬直しているマネキンのようにサンダルをつっかけたままの足の裏で床を擦りながら、ただ、ただ、どうしようと繰り返す。
大丈夫だよと、優しく囁く僕は、まだ事情が飲み込めない。
タイルのうえに落ちている。
人間の手。
細い指先は天を仰いだま、ぐにゃりと歪んでいる。なにか柔らかいものを掴みかけて、こと切れたよう。
── いや、違った。手、だけではなかった。手の続きとして、腕がある。それは白い長袖のシャツに包まれている。じりじりと首を伸ばしてさらに確認すれば、ばさばさの黒い髪、後頭部らしき物体が見えてきた。
僕は、なんだか不穏な心地になった。
それは、顔見知りの(むしろ宿敵の)あの男の頭部によく似ている気がした。
心臓がどくどくと音を立て始める。
緊張して、背筋がすっと冷え込む感覚。
僕は、さらに首を伸ばして、事態の把握につとめた。黒い髪が乱れて、露わになった首筋は、ひどく細い。肩もやっぱり骨ばっていて細い。その細い身体を包んでいる、洗いざらしの白いシャツ。胴体はちゃんとついていて、下半身も勿論、ある。穿いているのは着古したようなデニムだ。
ああ、これは。
もしかしなくとも、
……Lだな。
「粧裕、一体なにが……?」
我知らず、声が震えた。
それは細胞中が歓喜にわななく震えだった。
あれはLだ。竜崎だ。間違いない。
リュークを振り返ると、ククク……と酷く可笑しそうに笑っている。確信が一層、強固なものになる。
「お兄ちゃん……」
ひくひくっと粧裕の肩が揺れている。嗚咽をこぼす。
「私、二階の窓から、植木鉢落っことしちゃって」
「……うん」
「玄関のドアのまえ、ちょうど、お客さん、いて」
「……」
「ぶつかって」
「……」
「ばたって倒れて」
「……」
「……ころしちゃった、かも」
言った途端、言葉にしたことで、その事実が一層リアルになり、底知れぬ恐怖の淵に身を投じた妹は、わっと火がついたように泣き出した。
ころしちゃったかも、そう繰り返しながらわんわんと泣きじゃくる華奢な妹の肩をぎゅっと固く抱きしめる。
殺したかもしれない。死んだかもしれない。相手は”L”。
僕は凶悪なほどに満面の笑みを浮かべて、心の中でガッツポーズをした。
粧裕、よくやった……!
お兄ちゃんはおまえのお陰で新世界の神となった!
粧裕、おまえは新世界の女神だよ!
|