さよならさんかく
2.また来て四角
──と。
感動したのも束の間だった。
救急車で搬送された病院の診察室。緊急で呼び出された捜査本部のメンバーと、僕と粧裕。総勢六名が固唾を飲んで、ベッドに横たわった竜崎を見守る中、竜崎の容態を診察した白髪の医師は、CT結果の頭部画像と泣きやまぬ粧裕とを交互に眺めながら、至極のんびりした口調で、あっさりと僕の新世界の夢を打ち砕いてくださった。
「うん、大丈夫、大丈夫。頭蓋骨にも、脳にも損傷は見られませんし、脳を強打したことによって中度以上の脳震盪を起こして意識喪失に陥っただけですよ、大丈夫〜」
張りつめていた診察室の空気が、いっきに弛緩する。
「よかっ……っ」
粧裕が、涙に声を詰まらせる。気が抜けるような、ひどく間延びした医師の口調は、おそらく粧裕を慮ってのことだろう。
粧裕はずっと泣き続けていた。手にしたハンカチはぐしょぐしょに濡れて、握れば水が滴るほどだ。
父が心底ほっとした笑顔を浮かべて、粧裕の小さな頭を撫でている。皺の深い目尻が赤くなって、すこし涙ぐんでいるようにも見えた。
「はは、よかったな。粧裕」
僕は儚く笑って妹の肩を叩いた。
ことんと小さな頭が僕に凭れかかってきて、胸のなかに泣き笑いのくしゃくしゃな顔がうずめられる。甘えてくる妹を抱き寄せながら、僕は、ふっと遠い目をした。
(── 短い夢だったなぁ)
死ななかったな……。
やはり竜崎は僕のこの手で確実に殺さなければ、だめなのだ。ほかの誰が殺そうとしたところで容易に殺せるタマじゃないのだ。
しぶといゴキブリのように。
しかし一瞬本当に死んだと思った。
竜崎が死んだ。
本当にすべてが終わったと思ったのだ。
僕の新世界への妨げとなるすべてが消えた、と。
なので、この場合、僕がほんの少しセンチメンタルな気分に陥ったとしても誰も責めることはできないだろう。
診療室の寝台の上で、頭に包帯を巻かれた竜崎は死んだように、しずかに眠っている。多量の出血があったためか、頬にはまだ少し拭い落とせなかった血の跡が残っている。
それ以外は、まったくの無防備な寝顔である。これが世界の砦と呼ばれる名探偵なのかと首をかしげたくなるほどだ。
顔の上に濡れたタオルを置いたら、そのまま窒息してくれないだろうか、と物騒なことを妄想する僕の周囲では、とても穏やかな会話が交わされていた。
「よかったな、粧裕」
「……お父さん」
粧裕が僕の胸から顔を上げる。
父にむかって、うん、と頷く。
松田も笑顔で粧裕を励ます。
「粧裕ちゃん、大丈夫だよ〜、あたまはね、ちょっと切っただけでも血がどばーって出ちゃうんだけど、けっこう頑丈なんだよ! 竜崎は頑丈だから、平気! へいき!」
「……松田さん」
「大事に至らなくてよかったな、粧裕ちゃん」
「……相沢さん」
「……」(無言の微笑)
「……模木さん」
目を潤ませた粧裕は、駆けつけた捜査本部のメンバーから優しい言葉をかけられて、感動したように声を詰まらせ、やがて笑顔を見せた。
僕は、粧裕の笑顔を見てようやく本心から微笑した。
竜崎は死ななかった。けれど、まあいいか。
(──粧裕の安心した顔を見ることができたし、それだけでひとまずよしとしよう)
どうせ竜崎は僕がいずれ殺すのだ。ちょっと寿命を延ばしてやっただけさ。
ははは……はぁ。
内心でため息をついた。
そのときだった。
「……ん」
竜崎が寝台の上で、うめき声をあげた。
「あ、気がついたみたいですよ」
松田が嬉しそうに、竜崎の顔を覗き込む。捜査員たちが寝台をとり囲み、次々と上から竜崎の顔を見つめた。
悪夢でも見ているのだろうか、頬を引きつらせ、顔を歪ませ、閉じた目をぎゅっと絞った竜崎は、それからゆっくりと目を開いた。
「竜崎、あたま痛くないですか、頭痛とか、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい、竜崎さん。私、竜崎さんに」
「しばらくは捜査を休んだ方がいいな。なに心配するな、こちらは以前の指示通りに動けばしばらくは問題ない」
「あー、いちおう脳波の方も見ておきたいんですが、それでも明日には退院できますよ」
それぞれが勝手なことを喋りかけるので、何が何だか分からないようだった。
きょとんと目を丸くした竜崎は、横たわったまま捜査本部メンバーの顔をひとりずつ確認したあと、不思議そうに目を瞬かせた。
「すみません、あの、ここはどこでしょうか」
黒い目を丸くして首を傾げる。
「病院ですよ、竜崎」
松田がなんだか眩しいものでも見たように、目を細めて、わらった。
「事故で頭を強く打ってしまったんだ」
「で、救急車で運ばれて」
「しかし大事はない。脳に損傷はないと云うことだ」
松田と父が交互に説明する。
「はぁ」
竜崎は生返事をして、包帯の巻かれた頭に手を伸ばす。頭部を撫でて顔をしかめた。まだ痛みが残っているようだ。頬を引きつらせて眉間にしわを寄せる。
そして突然、ぎょろりと松田を睨みつけた。
「ではあなたは、その事故の加害者ということですか?」
「……え?」
一同、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。
ややして怪訝に互いの顔を見合わせる。
「なのに、どうして逮捕されずに、そう平然としているのでしょうか?」
「……え、え?」
「私をこんな目に合わせたのに」
僕は眉をひそめた。
── なんだろう。
竜崎の反応が少し奇妙だ。
「わ、私が加害者です。夜神粧裕です」
一同の不穏な気配を知ってか、知らずか、粧裕が、神妙な顔をして名乗り出る。おずおずとした態度で一歩前に出て、ごめんなさいと頭を下げた。
寝台の上で上体を起こした竜崎は、頭を下げたままの粧裕を見つめて、人さし指を唇にあてた。
指を口内でねぶりつつ、あっさりと却下。
「冗談は好みません」
と切り捨てて、面倒くさそうな顔で松田を指さす。
「失礼ですが、粧裕さんは、そんな乱暴なことができるように見えません。できたとしても力が不足して、私が気絶することはない。
どう見ても、こちらの男性の方がそれっぽい顔をしています」
「ひ、ひどいなあ、竜崎〜。僕はそんなことしませんよ〜」
からかわれていると思ったらしい松田は、苦笑いをしながら、それっぽい顔ってなんですか〜と大袈裟な抗議の声を上げた。
竜崎の薄い背中をばしばしと叩いている。脳震盪を起こしたばかりの人間を激しく揺さぶることはいかがなものかと思われたが、
他の捜査員たちは松田を制しようとしなかった。
おそらくそれ以上に気がかりなことに思考をとらわれていたのだ。
不自然に沈黙し、険しい表情を浮かべている。
竜崎の頭部の傷をじっと見つめている。
「痛いです。その手を止めてください。てゆうか、揺らさないでください頭痛がします」
「ああ! すみません〜〜!」
竜崎は心底いやそうな渋面をつくった。
「……あなた、ぱっと見の印象ですが、このなかで一番、粗忽者の雰囲気がありますよ? あなたが加害者でなければ、これは一体どういう事情なんですか」
「え〜〜!」
松田は楽しそうに笑っていた。
が。
「……」
その他のメンバーは……僕も含めて、みんな顔をこわばらせていた。
これは妙だ。
すごく変だ。
だって、竜崎は今、まるで──『松田と初対面』であるかのような言い方をしなかったか?
それはなぜか?
どうしてか?
胸に渦巻く疑惑の解答に気付いていた。
しかし誰も口にしようとしない。
口にし難い、最悪の事態を予想していたからだった。
平たく言えば”これは厄介なことになったぞ”と。
「あ〜……竜崎さん?」
場をとりなすように、横からのんびりと声をかけたのは、竜崎を診断した医師。ぽりぽりと白髪のあたまを掻きながら、椅子を回転させてベッドに向きなおる。
ふいに、僕を指さした。
「さて、竜崎さん、この人は誰でしょう?」
単刀直入だった。
救急車を呼び、気絶した竜崎を搬送する最中に事情を聞かれて、僕は、自身のことを竜崎の大学の友人であると紹介していた。それはそのまま医師にも伝わっているし、それが表向きの僕らの関係性である。
実際は、僕をキラ容疑者と考えて付きまとっているわけだが、
いくら竜崎が非常識であろうともよもやまさか一般人を相手にして彼はキラ容疑者です、などと言いだすまい。
表向きの関係性、および僕の名前を告げるだろう。友人のヤガミライト君ですと。同様に、自分はヤガミライトの友人で”流河”と言う名前を使っていると認識しているはずだ。
竜崎は、僕をちらりと一瞥して、そっけなくこたえた。
「初対面です。失礼ですがどなたでしょうか」
──ああ、やっぱり。
内心でガクリと肩を落とした。
「え、ええ?」
松田が頓狂な声を上げる。
「え、竜崎、それ本気ですか?」
いまさらのように慌てだす。ようやく事態が呑みこめてきたらしい。黒い目でじっと松田を見つめ、竜崎は言った。
「ですから、その竜崎って、私のことですか?」
「……」
「私は、Lです」
ちょ、まて、待て!
それは言っちゃだめだろ! おまえ、そこまで全部を忘れてしまっているのか?
が、決定的な一言だった。
「あああああ……」
音階の違う、あ、の音がいくつかの口から吐き出されて、見事なハーモニーを奏でた。白髪の医師は額に手を当てて、参ったなあというポーズを取りつつも、口ではこう言っていた。
「あ〜、はいはい。自分のことを、Lだと思ってるんだね。うん、大丈夫、大丈夫。記憶喪失と一時的な混乱ですね。まあ、気絶するほどの脳震盪の場合、よくあることですよ〜。すぐに記憶も戻りますよ、大丈夫〜」
「……」
この医師の言うことは信用してはならなかったのだ、と僕は深く反省した。
竜崎は始めっから全然、大丈夫じゃなかった。
そのことに気付くのが遅すぎたのだ。
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