満月の日から七日が過ぎた。
僕はそれから毎日、竜崎に触れている。
満月に膨張G(7日目)
まるで糸の切れた操り人形だ。
昼も夜も無く捜査をつづけて、体力と睡眠不足の限界がくる。
すると予兆もなく唐突に眠りに落ちる。
竜崎が女性の身体になってからも、捜査は変りなく続けられていた。僕を監禁した後もキラ殺人が続いたことで、実はここのところ不貞腐れ気味なのだが、
それでも竜崎はやはりキラ中毒とも表現すべき状態で、今日も例の体勢でイスに座り、指先と口元を動かし、
キラ殺人と思われる心臓麻痺の犯罪者の洗い出しと情報整理と糖分摂取に追われていた。
それがふいに大きな吐息をしてイスの背にもたれかかり、脱力してコトリと首を斜めに落とした。
と思ったら、もう健やかな寝息を立てて、眠りの淵に沈んでいた。
立てた膝に両方の手をのせている。
白い首筋をさらすように、頭だけを斜めに傾げている。
そのままの体勢で相変わらず速やかな入眠だった。
「竜崎、寝ちゃいましたね」
松田が、小声で話かけてくる。
彼にしてはめずらしく、物音で事態を察して、適切な声量を選択している。
「無茶な捜査をするから」
集中力にはそれなりに自信がある僕だ。けれど竜崎のそれは僕をはるかに凌駕している。
よくも継続できるものだと感心するばかりだ。
「ほんと無茶ばかりだよね」
「ええ」
「でもさ、女の子なんだから、もうちょっと身体を大事にした方がいいと思わない?」
「え?」
松田は大真面目だった。
「まあ…そうですね。でも女であれ男であれ竜崎は竜崎だから」
こいつの無茶は信条に従っていることだから、それを含めて竜崎なのだと思う。
「仕方ないですよね、松田さん」
そう言うと、とたんにモゴモゴと言い分けじみたことを口にする。
「そりゃ…それでもさ、女性っていうのはさ、身体の作りからして違うんだから…」
自分を労わってほしいんだ。
女の人は、僕たちよりもずっと傷つきやすいんだからと。
松田は、竜崎を指揮官あるいは上司であるまえに一人の女性として捉えている。
何故そう簡単に今ある状況を受け入れられるんだろう?
竜崎を抱いたこともないくせに。
「あ、月君も休憩を入れたら?」
言われて我に返る。
すうすうと寝息を立てる竜崎を見つめたまま、僕は少し怖い顔をしていたようだ。
「なんか疲れている?」
松田が気遣わしげな微笑を浮かべる。
「ええ、そうかもしれませんね」
おざなりの答えを返しても気に留めず、やっぱりねと松田は肯いた。
「それじゃ行こうか?」
と、やおら腕まくりをして、竜崎の膝下に手を差し込もうとしたので、僕は驚いた。
「どうするんですか?」
「二人とも部屋に戻ってゆっくりと休んだ方がいいよ。せっかくだし、今日はもう切り上げちゃっていいんじゃない?」
「それで竜崎を?」
「運んでいってあげるよ。君たちの部屋まで」
「え」
松田が運ぶ。── 竜崎の身体に、触れる?
ざわざわと黒い感情が足元から這い上がってきて、僕はあわてて松田を制した。
「いいですよ。僕が持ちます」
「月君、疲れているじゃない?」
「松田さんだって夜勤つづきでしょう?」
彼と僕とで体格に大差はない。けれど年齢差の分だけ、松田は僕よりも逞しく肉厚な腕をしている。
比較して僕がひ弱だということじゃないし、もちろん竜崎程度の体重なら抱きかかえることなど容易い。
「持ち上げるとき手錠が絡まるから、僕の方が都合いいですよ」
「え、そうかな…」
「そうですよ」
「でも…」
「僕に任せて下さい?」
「……うん」
不承不承にうなずいて名残惜しげに身体を離す。
僕はもう一度肯いて立ち上がり、疲れて眠ってしまった竜崎の膝下と背中に腕を回して、
ぐっと二の腕と背中に力をこめた。
僕とほぼ同じくらいの身長だ。しかし竜崎は驚くほどに軽い。それなりに重いだろうと覚悟して持ち上げると、逆によろめいてしまうほど。
僕は竜崎の身体をよく知っている。皮下脂肪が薄くて、ごつごつとした骨が目立つ体躯だ。けれど細身のわりに筋肉があり、骨格はしっかりとしている。
そのはずだった。
── 満月の日から七日が過ぎた。
僕はそれから毎日、竜崎に触れている。
触れるほどに、指先や唇が感じる。
変化する。
ゆっくり歩き出すと、浮遊感に気付いた眠り姫がうすく目をあけて周囲を見回し、気だるげに二度、三度、目を瞬かせた。
僕に視点をあわせてかすかに眉間に皺を盛り上げると、ふたたび安眠の淵に落ちる。
気を利かせた松田が、進む先のドアを開けて待機する。
ドアを片手に押し開けた、彼の表情には嫉妬が滲んでいるけれど、些細な優越感に浸るような気持ちの余裕は、僕にない。
「こういうとき、ほんと全然起きようともしないよね」
先回りをして、ベッドの掛け布をめくり、人ひとり分が横たわれるだけのスペースを広げた松田は、それじゃおやすみなさいと言いつつも、後ろ髪ひかれる様子でのろのろと後退し、躊躇いがちに部屋を出て行った。
真新しいシーツがピンと張りつめているベッドに、竜崎を下ろしながら、はい、おつかれさまでしたと僕はこたえ、振り返りもしなかった。
ベッドに下ろされた途端、金属の鎖が身体の下になってしまうことも構わずに、ごろりと側臥位になるので、
手早く体躯の下から引き出してやる。手足をちぢめ、胎児のような格好で寝入ってしまった竜崎の隣に腰を下ろして、毛布をかける。
枕なんて使いもしない。黒い髪が無造作にシーツのうえに散らばる。
気まぐれな猫のように好きな体位で眠りについた竜崎をしばらく眺めてから、背中を丸めて両手で顔を覆うように押さえ、深々とため息を吐いた。
腕のなかには衣服越しの肌の柔らかさが残っている。
松田だってきっと気付くだろう。
もし抱き上げでもしたら、あの日から確実に変化しつづける竜崎に気付く。
硬くしなやかな筋肉がゆっくりと変化し、丸みを帯びた脂肪の柔らかさを備えるようになった。
尖った顎と鋭い目つきは相変わらずなので、パッと見の印象に大きな変化はない。身嗜みに気を遣わない振る舞いも、
女性とは思えないほど不精な生活習慣も、以前と同じだ。しかし触れると、すべてを裏切られた気分になる。
なにもかもすべて。
そこでふいにこみあげてくる独占欲と焦燥。
竜崎が女である期間は『二週間』だけ。
たった二週間だけ。
過ぎてしまえば、僕を含めた皆が元通りになる。
きっとそうだ。
元に戻るだろう。きっと戻れるそう頼むから戻ってくれ。
円い月が欠けてゆく。
八月の終わりの満月の翌日から数えて今日で七日目。
今日を除いた八日後の午後23時、月齢はゼロとなる。
僕は頭を抱え、髪を乱した。
なぜこんな想いをしなければならない。僕だけがひとりで狂っている。
刻一刻と削られる空の月とは、正反対に、戻れそうもないところまで想いばかりが膨らんでゆく。
狡い。均衡を破ったのは竜崎の方が先なのに、心が変化してゆくのは僕ばかりだ。
眠り姫の艶やかな黒髪にそっと指先を寄せる。梳ったとしてもぴくりともしない。くせのある柔らかい髪を撫でながら、
僕はひとつの有り得ない仮定をする。
繰り返される寝息の合間にそっとまぎれ込ませ、もしも呟いてみたとしたらどうなるだろう。
もし告げたら竜崎はどんな顔をするだろう?
竜崎には聞こえないし届かない。
これは夜の嘆きだ。
「……愛してる」
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