わたしが「女である期間」は二週間だけなんですよ
と、竜崎は言った。
満月マンゲツ膨張ボウチョウC(2日目)

「月君、ちょっと休憩を入れましょう」
「ん?」
「これを着用したいので、隣の部屋へ」
「…ああ、そうだね」
松田が購入してきた商品は、赤地に黒いラインが胸の谷間で交差するデザインだった。 いかにもスポーツウーマンが着用しそうなシャープな柄で、がりがりとした貧相な体つきの竜崎には似合わないように思われたが、 着用する当人はいたって頓着し無いといった面相だった。捜査員の眼前でショッピング袋からつまみ出して臆面もなくしげしげと観察したあと、 僕とつながっている鎖の端をついと引いて立ち上がる。
「鎖を外さないと着ることができない、面倒です」
片手にブラジャーを揺らしながらぶつぶつと呟き、捜査室を出てゆく。そんな竜崎のうしろ姿をながめつつ、僕はあとに続いた。
切り裂かれたデニムの一部から毛並みの良い尾が垂れている。それをのぞけば竜崎はいつもどおりの竜崎で、 だるそうな猫背も、薄っぺらい体躯も数日前となんら代わり映えしない。
いつもの竜崎だ。
そうなのだけれど…。
寝室としてつかっている一室に、後から入った僕は、ドアのオートロックが掛かったことを確認してから竜崎に向き直った。 足を止めて僕を待っていた竜崎は、ブラジャーを奇妙な手つきでふらふらと左右に振ったかと思うと、とつぜん興味を失ったかのような素っ気なさで手近な椅子の背にかけた。
踵を返し、ベッドのほうへ歩む。
部屋の右手には、ベッドが二つ、十五センチ程度の僅かな隙間をもって並んでいた。 その手前の方、メイキング済みのベッドに、今朝この部屋を出たときには置かれていなかったはずの紙袋が置かれていた。
竜崎は、腰をかがめて紙袋を開いた。
「それ何?」
僕の問いかけにはこたえず、赤いテープで閉じられた開封口を丁寧なしぐさで剥がし取り、 中から透明なビニルでつつまれた光沢感のある薄いピンクの布を引っ張り出す。
長方形のビニルの二つ端をつまみ、竜崎は見せびらかすようにこちらに掲げた。
「外部の捜査員のひとりに買ってきてもらったんです」
「………」
呆れてものも言えないとはこのことだ。
それは正真正銘、女性用のブラジャーとショーツだった。
「…いつの間に」
「メールで指示を出しました。そうすれば気付かれずに済みます」
「僕のとなりでそんなことしてたのか?」
「月君は調べ物に夢中でしたね」
「さっきはデザインなんてどうでもいいって…」
松田に言ったじゃないか。言っていることとやっていることが違うじゃないか。 前言をあっさりと無効にする竜崎の行動は、まあいつものことではあるけれど、僕はやっぱり呆れた。
「ええ、デザインなんてどうでもいいことです。わたしにとっては」
ビニル袋のテープを爪で擦りながら、竜崎は思わせぶりな口上をさりげない調子で言ってのけ、 俯きかげんに指先を見つめたまま小さく唇を引き上げた。
「…なんだよ、それ」
からかわれている気がして、僕の口調は憮然としたものになった。
「僕のため、そう言うのか?」
「そうですねえ。…月君は、松田が買ってきた商品が、わたしに似合うと思いますか?」
「似合うもなにもデザインは関係ないよ」
わずかな淀みもなく言い返すことができた。
しかし竜崎は端から僕のこたえなどどうでもいい風だった。
「このブラジャーのコンセプトは、不思議の国のアリスをイメージしたピンクの白昼夢だそうです。 光沢のある質感が夢を表現しているんでしょうか。カップの部分とショーツのデザインが対になって、 蝶と花が刺繍されている。女性らしく繊細な柄です。 せっかくなのだし、味気ないデザインだったら面白くないですよね、月君」
「だから、どうして僕に聞くんだよ?」
「わたしの服を脱がせたとき、スポーツブラでは退屈だと思いませんか?」
「なっ」
絶句した。
ぼっと音がしそうなほどあからさまに、耳朶が熱く火照ってくるのが触らなくとも判った。
竜崎は、今度こそはっきりと笑った。
ビニルから取り出したブラを自分の胸に押し当てる。胸元に視線を落とし、まるで挑発するように自分の身体を抱きしめる。
「わたしは、自分の肉体の膨らみに触れても女だという自覚は持てませんでした。正直、疎ましいだけの事態になったと思っていました。 ですが、こうして女として扱われ、気遣われるうちに、徐々に女なのだという実感が沸いてきた。 松田さんにいたっては、わたしの裸を見たいとすら考えていたようですね。面白い。わたし自身、心や考え方はなにも変わっていないのに。 わたしの乳房が膨らむだけで、皆さんは平素の落ち着きを失っている。 普段は、自分がそうであるはずの性別から、性の対象として見られる感覚は、とても不思議で、面白いことです」
「………」
「月君、わたしがいまどんな気分か、分かりますか?」
問われて、軽く笑って見せる。
「そんなこと、男の僕にわかるはずもない」
なにかしらのまとわり付く不安定な感情を振り払おうとするように、大袈裟なジェスチャをする。
もうとっくに無駄な抵抗だ。それはわかっているのに、そうせずにはいられなかった。
鼓動が速くなってきている。
竜崎は間違いなく見抜いている。というよりも、竜崎がそういうふうに仕向けている。
「簡単です」
毛並みのよい尾が機嫌良さげにゆらりと揺れた。
「浮かれている…。それはわたしも同じなんです」
ネコの眼を細めて微笑した。
「面白い、とわたしは先ほど言いましたが…つまりはこういうことなんです。わかるでしょう月君?」
同意を求められ、僕は理由もなく狼狽した。
ひどく蠱惑的な表情だった。
周囲の空気の密度が一段、濃くなった。僕は、知らないうちに口内に溜まっていた唾液を嚥下する。
竜崎は胸元のブラジャーを取り払い、腹部のまえで腕を交差させてシャツの裾に手をかけた。手錠の鎖を揺らしながら、シャツをたくし上げて首から抜きとる。
小さな乳房をそなえた真白い裸体が目の前でためらいもなく曝されて、視線を逸らしかけたけれど、 羞恥している事実を相手に知られることが癪だった。思いとどまった。露骨な挑発の手のうちでいとも容易く転がされている。 腹が立ったが、怒りを表すにすること自体が負けを意味している気がした。
「それでは月君」
まるでショーの始まりのように愉快げな口調だった。
「セックスしませんか?」
手錠の掛かった片手にシャツを持ちながら、竜崎は、あからさまな言い方で誘った。
「馬鹿を言うな」
わざと素っ気なく突き放せば、いっそう愉しげに口元に皺を刻む。
「したくない?」
「冗談にしても笑えない」
「冗談ですか?」
「捜査中だ。しかも真昼間。どんなご休憩だよ」
「なんなんでしょうね。たまに月君の言うことは野暮を通り越して糞真面目としか言いようがないですよね」
「竜崎!」
かっと頭に血が上った。
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
声を荒げて叱責すると、ふいに竜崎が僕に向かって足をすすめた。 突然の接近に驚いて反射的に後退しかけた僕を、うっすらと微笑みながら鎖を手繰って引き寄せる。
「逃げる術なんてないですよ?」
「逃げるなんて」
「これでつながっているんだから」
「おまえ、おかしいんじゃないのか」
「わたしはいたって普段通りです」
「普通じゃないよ。僕は、変態の戯言に付き合うつもりはない」
「変態…」
「この状況でセックスしたいだなんてどういう神経してるんだ。捜査の途中だ。しかもおまえは女なんだ。それを判って言ってるのか?」
「判っていないのはどっちですか」
「おまえの方だ」
「いいえ、月君の方です」
きっぱりと言い切った竜崎は、僕の腕を掴んで逃さないように、ぐいっと身を乗り出した。
耳元にくちびるを寄せる。
低く掠れた声が鼓膜を震わせる。
「女だから、したいって言っているんです。頭を働かせてください。わたしが『女である期間』は二週間だけなんですよ?」
「………」
「月君は優秀です。それくらいわかるでしょう」
間近で黒い頭部が揺れた。はっとして竜崎との距離をはかろうとしたが遅かった。
温かい、ぬるりとした舌の感触が首筋を這い上がり、僕の足元はよろめいた。木製のスタッキングチェアの背もたれに腰をぶつけてしまう。 竜崎の腕が支えるように僕の腰にまわされる。なんだかいつもと逆の立場のように錯覚して不安定な気分に陥った。
腰元にまわされた骨張った腕が、僕の腰の筋肉のありようをたしかめるように撫でまわし、背の中央辺りの服をきつく握る。 竜崎は身を押し付けるようにもたれかかってきた。
胸の小さなふくらみが僕の胸部におしつけられる。そのやわらかな弾力。
「竜崎」
「はい」
「何を考えている?」
竜崎は小さく笑った。笑っただけですぐに返事はしなかった。
右の肩口に顔をあずけて頬を寄せる。
いつも食べている洋菓子の甘ったるい香りが、髪の先からも匂った。
「『何を考えている?』だなんて聞くことじゃないですよ」
探偵は、黒い鋭利なまなざしを瞼で覆い、僕のあらがう気力を根こそぎ奪い去るような甘い声で囁いた。
「月君と同じことです」


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