と、とりあえずブラジャーを買おうじゃないか? と、父は言った。
満月に膨張B(2日目)
捜査本部に浮ついた雰囲気が漂っている。
そんな気がするのは僕だけだろうか?
…いや。
気のせいじゃない。確実におかしなことになっている。皆が気にしている。
ちらちらとうかがうようにそこを盗み見している。
問題は、昨日発生した竜崎の胸だ。
竜崎はいつもだぼだぼのシャツを着ている。薄手の素材ではないために、胸部のふくらみなどあまり目立たないと思われるかもしれないが、意外とそうではない。
ソファに例のスタイルですわり、テーブルの向いの端にあるケーキへと手を伸ばす瞬間、
もしくは捜査資料を受け取ろうと腰をねじる瞬間、突っ張ったシャツの表面に、うっすらと乳首の輪郭が浮かび上がるのだ。
捜査員たちがことさら意識し、ちらちらと盗み見しているせいもあるだろう。
そのために目について動揺するという自業自得もあるだろう。
布のしたに隠された小マメのようなそれ。
愛らしい、ポチっとした、竜崎のシャツに刻まれる小さな突起物。
それは、いい年の男ばかりが缶詰状態になっている捜査本部において、あまりにもあまりにも卑猥な刺激物だった。
「はあああああ……」
松田が熱を孕んだ吐息をつく。
ただでさえ効率の悪い仕事量が本日は通常の半分以下である。
その原因が、ため息と、熱を孕んだ余所見によるものであることは言うまでもない。
苛立ち気味の父のこめかみに青筋が浮かぶ。
「松田! ため息は寄せ、とにかく手を動かさないか!」
「はっ、はいぃ」
と父に叱咤され、十分ほどはテキパキと手を動かすのだけれど、またすぐに熱っぽい視線を竜崎の胸元に寄せたままため息をつく。はああ…。
恋に溺れた青年の面差しで、惚けたように資料を見つめる。幻惑を見ている。資料の黒い印字が竜崎へのラブレターに見えるのか。
天然を通り越して此処まで来ると、とにかくウザイ。
ガタ。
「りゅ、竜崎」
とつぜん父が立ち上がり、つかつかと僕たちの方に歩み寄ってきた。
「…はい」
そろそろ来るだろうと内心で身構えていたらしい竜崎が、モニタ画面から目を離し、無表情をつくろって振り返る。
隈の酷い目で父を見あげて、親指を唇に押し当てる。爪にカリリと歯を立てる。
「どうしました夜神さん?」
僕は、ことの成り行きを内心ハラハラしながら見守っていた。
堅物の父のことだから、竜崎が女性化してしまった現実についていくだけでも精一杯だろう。
あきらかに疲労の色が濃い顔つき。オーバーフロー気味の脳で
一体何を言うつもりだ?
歩み寄ってきた父は、いきなりガシっと竜崎の肩を両手で掴んだ。
「と、とりあえずブラジャーを買おうじゃないか?」
父は言った。
僕はホッと胸を撫で下ろした。良かった常識的だった。父はちゃんと竜崎を女として見ている。
しかし竜崎が面倒くさそうに返答したセリフときたら。
「はあ。…それでは、この胸のサイズを測って、適切なカップのブラジャーを買ってきていただけますか?」
……。
前言撤回。
良くなかった。全くもって良くなかった。問題なのは竜崎の不機嫌だった。
「!!」
竜崎のセリフに、父はユデダコのように赤面した。竜崎の顔と胸とを交互に見つめながら口をパクパクして、絶句する。
その背後では、つねに冷静沈着な(あるいは無口で無骨な)はずの模木が、抱えていたキラが関わっていると思われる殺人事件に関する調査書類を床にバサバサと派手に落っことした。
そして自らの失態で床一面に散乱した書類を拾い集めようと、あわてて巨躯を屈めている。相沢は呆れたような顔をして、どうにかしろよ、と僕を見た。
僕にそんな面倒を押し付けられても困る。
しかしだからといって竜崎のバストサイズを図るために、ここにいる誰かの指がその胸に触れるというのも、
それはそれで非常に許しがたい事態だった。
やれやれ…。僕しか事態の収拾を行えないようだ。僕は、気まぐれ探偵の戯言をたしなめようと、鎖を引いた。
「りゅ」
「竜崎ィ〜」
僕の声に、感極まった松田(バカ)の大声がかぶさって、気勢をそがれた僕はその場でガクっと肩を落とした。
松田は、抱えていたバインダーをみずから放り出し、竜崎の足元に駆け寄ってうずくまる。
「竜崎ィ〜!」
童顔の瞳に、うっすらと水の膜が張っている。
うるうると大きな瞳が潤んでいる。
──松田よ、何故、涙ぐむ?
松田が感極まったような声を出した。
「わかっています竜崎。わかりますよ、ぼ、僕が…ううっ、僕がきっと竜崎に似合う、か、可愛らしいブラジャーを買ってきます!」
ゾわッ。
(((……松田がキモイ…)))
一同はいっせいに鳥肌を立たせた。全員が白々としたまなざしで、竜崎の膝にすがりつく若僧の背中を見下す。
一同のどん引きに気付かず、松田は涙をこらえた声音で訴えた。
「竜崎。あなたは、ずっとLとして生きるために、男として育てられ、女性としての愉しみを味わうことがなかったんですね。
年頃の女の子のように、可愛らしい格好をすることがなかったんですね。
だからそんな局長を困らせるような、可愛らしいことを言って、僕らに八つ当たりをしているんですね。竜崎がすごく可愛らしいです。ああ、そしてすごく切ない!」
「………」
「………」
「わかっていますわかっていますよ竜崎! 僕が探してきます。
キラ捜査はお手伝いしかできないミソッカスですけど、ブラジャーを買ってくるくらいなら僕にもできる!
いえ、僕にしかできない! 是非僕に行かせてください!!
ランジェリーショップなら彼女と一緒に行ったことがあります。大丈夫ですよ、店員さんとの交渉なら任せてください。僕、こう見えてもお店の人と仲良くなることは上手いんです!」
「………」
拳を固めて力説しているが、僕は思った。松田のそれは誤認で、きっと店員はいいカモがネギ背負って来たと思っているだけじゃないのか? と。
まあいいさ。買いに行きたいなら買いに行けばいい。だからそこは問題じゃなくて、竜崎のバストサイズをどうやって測るかってことなのだ。
「僕、これから買いに行ってきます!」
松田がすっくと立ち上がった。すっかりと計測した気になっているようだ。
その松田に対し、父が叱責の声を上げた。
「松田! 少し落ち着きなさい!」
さすが年の功。おっちょこちょいな若僧を冷静にさせるタイミングを心得ている。
と──安心したのも束の間。
「竜崎にも好みがある。きちんと趣向をヒアリングして購入できるか?」
父さん!
ツッコムところはそこじゃないから!
というか松田にまかせたら、とんでもなく破廉恥なデザインのブラジャーを購入して、竜崎の集中力を著しく低下させる結果になるから!
「大丈夫です! 大船に乗ったつもりで任せてください!」
松田は力強く胸を叩いた。
そしてつづけた。
「竜崎には赤が似合います! 胸の谷間にコサージュが付いたハーフカップ。シンプルかつ可憐かつセクシーなデザイン! これに決まりです!」
((あああああ…、やっぱり自分の趣味に走ろうとしている…))
僅かな期待を脆くも砕かれ、一同は、内心でいっせいにタメ息をついた。
松田はまず人の話を理解するところからはじめなければならない。あるいは僕の話を聞くところから。
「まあ、デザインはどうでもいいんですけどね…」
膝を抱えて沈黙を通していた竜崎が、この段になってようやく口をひらいた。やれやれと立ち上がる。奇妙な方向に転がり始めた事態を収集すべく、問題はですね、と前置きした。
「私の乳房が気になるんでしょう。それを隠すことが必要なのでしょう。でしたらデザインだとか、私の好みはこの際どうでもいいことですよね?」
どうでもいいという部分を再び強調され、かるーくショックを受けている松田の前で、上着の裾に手をかける。
「とにかく買ってきてください。早速ですがサイズを測ります。ええと、模木さん、すみませんがメジャーを」
頼まれて、これ幸いと隣室にトコトコ逃げ出した模木。恐らく二度と捜査室に戻りたいと思っていないだろう。(それでも律儀に戻ってくるところが模木の無骨で生真面目で頼りになる性質なのだ)
相沢は知らぬ存ぜぬを決め込んで横を向き、父はもうすでに赤面している。竜崎の乳房を見たら卒倒するかもしれない。
松田は…やけに眼がキラキラとしている…。なんというか露骨に透けすぎて、ここまでくるともはや下心を凌駕した純粋無垢なスケベ心と云えよう。
そして竜崎は、速やかに騒動を収束させたいために、白昼の業務室で、女としての白い裸体を晒さんとした。
「ちょっと待て」
シャツをたくし上げる腕が動き出した瞬間、僕は絶妙のタイミングでその手を制した。
「わざわざサイズを図る必要もない」
「ら、月君、どうして?」
松田の悲痛な声。この人は…。
「…松田さん、ご存じないかもしれませんが、下着市場にはスポーツブラという商品が流通してます」
「……スポーツブラ?」
「はい。スポーツ愛好家のために作られた商品で、SMLの三サイズがありますが、基本的にはフリーサイズで着用できる商品なんです。
竜崎の体型だったらLサイズで妥当。可愛いデザインは少ないですが、竜崎の言うとおりデザインはこの際どうでもいいことです」
どうでもいいという部分を強調され、さらにショックを受けた松田。
竜崎はシャツの裾から手を離して、僕を称賛した。
「さすが月君。博識です。女性の下着にまで詳しいなんて一種のマニア的知識欲です」
「ははははは。ありがとう。全然っ、褒めてないね」
「いえ。さすがにわたしも人前で脱ぐことは抵抗がありました。ありがとうございます」
会釈程度に頭を振って、ふたたび椅子のうえに踵を上げて座りなおす。PCモニタに向かい、中断された作業を再開した竜崎は、事態は全て収束したと認識し、振り返りもせず松田に告げた。
「それではスポーツブラの購入をお願いします。松田さん」
「あ、はい!」
カタカタカタ…。
キーボードを叩く音が響く。
僕らはふたたび作業に戻った。
しかしなにやら背後が騒がしい。気が散る。浮ついた雰囲気が漂っている。気のせいじゃない。確実におかしなことになっている。
「竜崎」
僕はしばらく経ってから竜崎に話しかけた。
「はい」
「父さんたちはさ、インターネットでランジェリーショップの場所を検索できても、なんでネット通販って手段を思いつかないのかな?」
「さあ。恐らく皆さん生真面目だから、すぐに手に入れなければならないと思い込んでいるのでしょう。わたしは別に『本日中に買ってきて欲しい』とは一言も言っていないんですけれどね」
「ふうん。…で、竜崎はそれを指摘しないんだな。鬱陶しくないか、うしろのあれ」
僕たちの背後では、松田を筆頭にインターネット検索であーだこーだと騒いでいる。
「はあ…あれですか」
振り返りもせずに竜崎は生返事をする。ブラジャーごときで捜査を邪魔され、内心は苛立っているんだろうと思ったのだが。
「まあ面白いから良しとしましょう」
竜崎のそっけない返答は、意外なものだった。
「…面白いか?」
「はい」
「そうか?」
「こうも変わるものなのですね」
「…は?」
背後には、いまだにブラジャーのデザインを議論している松田や父たち。
その声を聞きながら、マウスから指を離した竜崎は、デニムの膝頭に腕を乗せ、腕に白い顎を預けた。ふうっとため息をつく。
「…竜崎?」
竜崎は、物憂げな表情を前に向けたまま、黒い睫を上下に揺らした。
「面白いですよ。何もかも」
ぽつりと呟く。
「……」
僕は、纏いつく透明な蜘蛛の糸に包まれた気がした。
それは圧倒的な違和感だった。
「どうしました?」
「あ、いや…」
口ごもって目を瞬かせると、竜崎が口元だけで薄く微笑んだ。
それはやけに艶めいて見えた。
僕は思わず目を見張った。
松田さんの扱いがちょっとアレですが、許してください。ホントすみません。
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