月君。 男の子なら、どんな名前をつけますか
満月に膨張M(15日目)
ガタンと重々しい音を立ててドアが開いた。
入り口に背を向けた姿勢で、硬い寝台のうえに横たわったまま僕は、身動きひとつしなかった。
ぺたりぺたりとスニーカーの靴底で、床を叩きながら近付いてくる。
足音だけも相手を間違えたりしない。
竜崎。
カタンという乾いた音が響いた。簡易テーブルにトレイが置かれたのだ。
直後に、運び込まれたサンドイッチの美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐり、胃がぎゅっと引き絞られるような飢えを感じた。
激しい空腹感のために、自然と沸いてくる唾液をそっと飲み込む。
そうして僕は、竜崎の存在をことさら意識的に黙殺した。
立ったまましばらく沈黙を守っていた竜崎は、根負けしてため息と共に口をひらいた。
「月君。食事をして下さい。まさかハンガーストライキを楯に呼び出されるとは思いませんでした」
「………」
「…月君」
あきれたような声で名前を呼ばれ、僕は身を捩り顔をあげた。
「竜崎。方法は」
「ありません」
機先を制してぴしゃりと撥ね付ける。
竜崎は、うんざりした表情で僕を見下した。
「…いい加減にしてください。何度言わせれば、気が済むんですか」
「おまえは」
「どうしようもないことなんです。決まっていることなんです、変えようのないことなんです」
「………」
「…お願いですから。理解してください」
懇願の響きをふくんだ声にたまらなくなって奥歯を噛み締める。
── 理解できない、
…わけじゃない。
本当は、わかっている。四日間叫びつづけた。その間、竜崎は一度もここに
来なかったのだ。変えようのないことだと頭では理解している。ただ納得できないだけ、こころが認めたがらないだけ。
拘束され地下室に閉じ込められた原因は結局のところ、その一点に尽きた。
認めようとしない僕に、竜崎は、自らの生態を散々と繰り返し説明した。それでも納得できず、僕はひどく取り乱して暴れてしまったのだ。
今だって状況を完全に受け入れることができたわけではない。
── 納得なんかできない。
告げようとしても喉がヒリヒリと痛み、腹から叫ぶ気力が湧いてこないことに気付く。
摂食を拒否して延々と叫び続けけたツケが回ってきたのだ。
苦々しさと共に、嗄れたのどに唾液を流し込む。
「…身体の具合、大丈夫?」
かすれた声でそっと訊ねた。
四日振りに見た竜崎の顔色は、あまり良くないようだった。
地下室と云う閉鎖的な空間の電灯の下だからという理由だけでなく、どこか体調が悪そうに見えた。
「月君こそ。随分と憔悴した顔をされていますし、声も酷いですよ?」
「僕は…平気だ」
「だったらわたしも平気です」
つむじ曲がりな回答に顔を顰めると、竜崎は口の端をすこし吊り上げた。
サンドイッチに手を伸ばし、ラップを外してひとつを摘まみ、寝台の端に腰を下ろす。
僕の口もとに近づける。
「食べてください。夜神さんが心配してます。こんな手間をかけさせないでください」
聞き分けのない子供を宥めるような口調だった。
しかし僕は、差し出されたサンドイッチよりも、接近した胸元が気になってしまう。
普段どおりのシャツの下に、小さな乳房はまだ存在している。
そして背中に隠れている異形の尻尾も。
まだここに存在している。けれど消えてしまう。もうすぐ失われてしまう。
── おまえがここに来たということは。
「…もしかして、そろそろ時間なのか」
目線をあげ、竜崎を見つめた。
黒い目の中に、もはや感情の乱れはない。
「いつ、元に戻る」
「……新月」
言いかけた竜崎は、少し口を閉ざした。
「…いえ…── 月齢がリセットされるとき」
「………」
「…二十三時です」
サンドイッチを皿に戻し、デニムのポケットから携帯電話を取り出す。スリムなスタイルの携帯電話の外側にある、
イメージウィンドのデジタル時計を確認して、小さく付け足す。
「あと三十分ですね」
「……」
「…そうです。だから来ました」
隔離されていた数日間に、詳細に把握したのだろう。
残りわずかとなった時間の砂、刻一刻と零れ落ち続ける残量を、正確に把握した上で、竜崎はここにきたのだ。
時間の無情さと残酷さに気付かされるとき、それは決まって喪失とともにある。満ちた月が欠けるとき、膨らんだ希望がついえるとき、生まれた命が死に至るとき。
── つまり葬送のために。
「……」
気がつくと目に涙が滲んでいた。
そうだと気付いたのは、竜崎の顔が水彩画のように、輪郭がぼやけたせいだった。
脱力して寝台にふたたび頭を落とした。
底知れない灰色の空虚に打ちひしがれてぐったりと横たわり、
壁の方を向いたまま目を閉じた。閉じると目尻から皮膚を伝うものがあった。
妊娠を知られたくなかった。
あの日、竜崎は言った。
それは確実に訪れる喪失という現実の辛さを、僕に味合わせない為だった。
検査薬をつかって無理に妊娠を暴かなければ、きっとひとりで苦く穏やかな秘密を抱え、幸福感と罪悪感を味わい、
しかしそんなことはおくびにも出さず、何事もなかったかのように日常へ返っていっただろう。
竜崎は、賢いくせに、ときどきとんでもなく馬鹿だと思う。
ひとりで何でも抱え込もうとし過ぎるのだ。
苦痛を味わうのは、ひとりだけでいいと言わんばかりに。
「手錠を外してくれ」
「……」
「…大丈夫だよ。もう暴れたりしないから」
背中でとらわれた両手首を動かす。
── おねがいだから。
「…わかりました」
デニムのポケットを探り、鍵をつまみあげる。ひんやりとした細い指先が手首に絡みつく。
手錠は、金属音を響かせて容易く外れた。
僕は、寝台に手をついてゆっくりと起き上がり、不自然な格好で拘束されて凝ってしまった肩を回した。こき、と乾いた音がした。
擦り切れて赤くなった手首に、そっと指を当てる。
僕のしぐさを眺めていた竜崎が、おもむろに言った。
「…手当てをさせましょう。松田を呼びますが、面倒なことは喋」
「竜崎」
僕は、立ち上がろうとして腰を浮かしかけた竜崎の腕をつかんで、強く引き寄せ、抱きしめた。
予感していたのかもしれない。猫背の痩身はなすがままに引き寄せられ、抵抗もなく身を預けた。
「ごめん」
呟くと、竜崎はかすかに笑った。
「…何がです?」
「責めたりして、悪かった」
「月君には、責める権利があります」
「…いいや」
僕は、納得できないと言って竜崎を責めることで、竜崎だけを悪者扱いしていた。
苦痛を味わうなら、独りではなく二人の方がいい。
そう囁くと、閉じ込められた腕のなかで、竜崎は溜め息とともに全身の力を抜いた。
言葉もなく、どのくらいそうして抱き合っていただろう。
…月君。
と、小さな声で竜崎が呼んだ。
「月君。『もしも』の話です」
「…うん」
「もし月君に子供ができたら。…男の子なら、どんな名前をつけますか?」
「はは、名前?」
おもわず優しい気持ちになって相好を崩した。
子供のために、一緒に名前を考えるなんて、まるで夫婦のようじゃないか。
「僕がつけるの? …竜崎ならどうする?」
と、言うと、竜崎はふふっと小さく笑った。
「ライト君にちなんで、レフト君で」
「……」
「……あ、怒りましたか?」
「………あのね。僕の名前に文句でもあるのか、それは父さんに対する侮辱か?」
「わたしはセンスがないんです。月君ならどうしますか?」
重ねて訊いてくる竜崎へ、ちょっと考えてから告げる。
「…”ナナ”とか?」
「え、女の子っぽくないですか?」
「古代の月の神の名だよ。仕方ないじゃないか。月は女神として伝わっていることが多いんだ」
「たとえばヘラ?」
「ヒナ」
「それは可愛らしい」
「ツクミ」
「風土記ですか。しかし月読神とそのまま書くと夜神という苗字で重なるし、読という字は余分ですね」
「僕の名から一文字を使ってよ。月は絶対」
「でしたらミは美にしましょう。夜神君の子ならきっと美人になるでしょう?」
「竜崎の子だから、きっと大嘘つきのジャジャ馬だろうな」
「…こんなときだというのに、酷いことを言いますね」
「こんなときだから僕は酷いんだ」
「知ってます。月君は本当に酷い人です」
「はは、竜崎に言われたくないな」
「…はい、一番酷い人間はわたしです」
「え?」
竜崎がふいに顔を上げ、唇を押し付けてきた。全身を押し付けるようにして、抱きついてきた。
鼓動が跳ねた。時を刻む針の音がやけに響いて聞こえた気がしたけれど、そんなものはどこにもない。
時計はデジタル式の携帯電話だけなのに、カチリ、カチリ、カチリ。音がした。
ふわりと景色が揺らめいた。瞠目する。竜崎が深呼吸をひとつ、鼻でした。その瞬間。胸の硬さ。
くちびるを離したとき、もう竜崎の肉体はもとに戻っていた。
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