満月に膨張N(15日目)
竜崎に支えられて捜査本部のメインルームに戻ると、捜査員はいっせいに僕たちのほうを振り向き、驚いた表情を浮かべた。
僕のやつれた様子が、モニタ画面越し以上だったのか、それとも竜崎の変貌に驚いたのか。
恐らく両方だろう。
あわてて駆け寄ってきた父は、僕の腕を掴んで引き寄せると、顔を真っ赤にしていきなり怒鳴りつけてきた。
「月! 食事もしないなんて、いったいどうしたんだ!」
以前の監禁とはまた違う意味で心配をかけてしまったのだ。
僕は、返す言葉もなく項垂れるしかできない。
「きょ、局長…」
同じように駆け寄ってきた松田が、オロオロとぼくら親子を交互に見る。
どう取り成すべきかとうろたえる顔付きだったが、ぱっと目を輝かせた。
とつぜん竜崎の平らな胸に、べたりと手のひらを当て叫ぶ。
「柔らかくない!」
ギョッとした父が、重ねようとした叱責を、おもわず喉の奥で詰まらせて目を白黒させる。松田は「ああああ…」と大袈裟に切ない吐息をこぼした。
「竜崎〜、本当にもどっちゃったんですか?」
平たくなった胸をさわさわと。
さわさわと触られながら竜崎は、ええそうですね、と真顔でこたえた。
「松田さん。私はたしか月くんを迎えに行く直前に言いましたよね、ここに帰ってくる頃にはきっと元の姿に
もどっていると。
つまりあなたの行為は、事態を承知のうえでの変態行為、同性に対するセクハラ行為で告訴して欲しいという
意思表示だと受け止めても宜しいんでしょうか、そういうことでいいですよね?」
「そ、そんな、冗談ですよ!」
「…冗談だとしても悪質です」
「別にエッチなことを考えてるわけじゃないですよ、男の胸ですもん、元に戻ったんだな〜と確認のためですよ。やだな〜」
言いつつも、名残惜しげに胸板の感触を味わっている。
「松田さん…」
松田の行動が、父の怒気を少しでも逸らそうという、彼なりのボケた優しさであることは明白だった。
竜崎も、気付いていないわけではないだろう。
しかしつい先ほどまでの事情が事情だけに、見た目は平素の無表情を保っていても、
内心は荒れている。僕と竜崎しか知らないこと、元に戻ったものは、胸などの、見た目だけではないということ。
普通なら冗談で済ませるレベルのことに、八つ当たりをしてしまう竜崎の心情を説明することはできない。
事情を知らない松田にしてみれば、とんだとばっちりかもしれない。
「…すみません」
と、頭を下げると、彼はビックリしたように目を丸くした。
「え? 何、月くんに謝られるようなことは…?」
「なのでセクハラはもう結構です」
「え、え?」
理解が追いつかず不安げに首をかしげる松田を見て、怒る気力も失せたのか、父は僕の腕を放した。
「月。今日はしっかりと食事を採って休みなさい」
「うん。そうさせてもらうよ」
「…竜崎も、まだ体調が完全なわけではないだろうし、
捜査の方は私たちで進めておくから。それでいいな?」
「そうですよね、局長!」
ようやく胸から手を下ろした松田も、大きく肯いて同意する。
後のことは僕たちに任せて下さい、と胸を張り、
「なにせ竜崎は、盲ちょ」
と、言いかけて僕の視界から消えた。
突如として
竜崎が、松田に華麗な蹴りをくれたのだ。ぐえっと一声呻いて尻餅をついた松田は、
足刀を入れられた鳩尾を押さえて、物悲しい声でうううと呻く。
あまりにも突然の出来事だった。
呆然と立ち尽くした僕は、数秒後に我に返った。
そして鼓膜に残った科白に── 思わず耳を疑った。
なに?
今、松田はなんて言いかけた?
「…盲、腸?」
と、言わなかったか?
竜崎を見る。
横に並んで立っている竜崎は、急激に身体を動かしたため、というには大袈裟なくらい激しく肩で息をしていた。
痩身の腹部に視線を向ける。
地下室で見たときから、どこか体調が悪そうに思えた。
その理由が、シャツの下のぺったんこの腹部に、あるのか?
「……竜崎」
「…なんですか月君」
「服を脱いで見せろ」
「いやですよ変態」
── 何故脱がない?
疑惑が急浮上する。
シャツの裾を引っ張って持ち上げようとした。
すると両手で服を押さえ込んで、竜崎はそこから逃げ出そうとした。
僕がぎゅっと掴んで離さないから、柔軟なシャツの裾が伸び、まっしろい腰が露出する。
しかししぶとくも竜崎は逃走を止めない。余計に疑わしい。
沸騰するほどの勢いで疑念が沸き上がる。
「脱げ」
「どうしたんですか」
「いいから腹を見せろ!」
「意味が分かりません。セクハラで訴えられたいんですか月君!」
それこそ意味が分からないじゃないか、僕はおまえとセックスして挙句の果てに妊娠させているんだからな!
それだけのことをやってんだからな! などと捜査員の面前で言い返すわけにはいかないので、問答無用とばかりに細い腰に腕を回し抱え込み、
シャツの裾を強引にめくりあげた。
目を瞠った。
白い腹部にガーゼがはり付けてあった。
── これは。
「…なんの傷だ」
「急性虫垂炎です」
急に開き直ったような態度で、つっけんどんに言い返してくる。
身をよじって僕の腕から逃れると、忌々しげに付け加える。
「月君が地下室にいるとき、お腹が痛くなって病院にいったら、そう診断されたんです。そちらはそちらで大変だったでしょうが、
こちらはこちらで物凄く大変だったんです」
……は?
何を言ってるんだ?
「すみません…竜崎。黙っているように言われたのに…」
鳩尾を押さえつつ立ち上がった松田が、涙の滲んだ目で謝罪する。
竜崎は不機嫌な顔付きで、睨んだ。
「まったく不注意です。月君に心配をかけたくないから、隠していただくように頼んだはずですよね」
「…すみません竜崎」
哀しそうに目を伏せる。
父の顔を見ると、少しばつが悪そうに目を反らした。
どうやら捜査員たちの間では、共有の隠蔽工作が図られ、また認識が一致しているらしかった。
しかし僕は、松田に対する嫌味な態度は、完全なる八つ当たりだと思った。
なぜなら、急性虫垂炎は、右下腹部を切開するもので、竜崎の傷痕は、下腹部を切開しているのだ。
素人でも、多少の知識があれば分かってしまう。
一目瞭然、ガーゼの位置だけでも、まったく別物の手術痕と分かる。
これは急性虫垂炎じゃない。
(じゃあ、何の?)
………。
……ああ、そういうこと?
── 竜崎の、大嘘吐き!
僕の中でパズルのピースが音をたてて合致した。
状況的にそうとしか思えなかった。
月齢がゼロになるとき竜崎の体も自動的にリセットされる── だとすれば、そこにおいておかなければいい、
元に戻らない安全地帯に避難してしまえばいい、
竜崎の体から取り去ってしまえばいい。
恐らくは、そのための手術痕。
「………」
気が抜けた。
頭のてっ辺から芯を抜かれた。僕は、その場に膝を付いてへたり込んでしまいそうになった。
この数日間の僕の嘆きはなんだったのだろう、
飯も食わずに叫んだのに、すべては竜崎の嘘のまえにまったくの徒労と成り果てたのだ。恐らくは。
襲い掛かる脱力感。しかし同時に、気を緩めれば、泣き出してしまいそうなほどの安堵感に満たされていた。喜びを感じていた。
どこかにいる。
── どこにいる?
問いただしたかった。
── どこかでちゃんと生きている?
叫びだしたいくらいの感情を、ぎゅっと唇を引き結んで堪える。竜崎の肩を掴んで揺さぶって、本当は、真実は、どうなんだと問い詰めたい、
気持ちを押し殺す。
聞いてはいけない。
こぶたの鼻をプッシュするようなあどけないしぐさで、僕は、以前の夜にまじないを捺された。
何かに気付いてしまったとしても正解を欲してはいけない、
言及してはいけないしましてや検査薬で証明してはいけない。そういうふうに指先ひとつで諭された。
今回もきっと僕に知られてはいけない、理由がある。そうでなければここまで大掛かりな嘘を吐く必要もないだろう?
無言のまま見つめてくる黒い瞳。
一抹の不安をたたえているように見える。
大切なものを守るために。
「…人を無闇に足蹴にするのはやめろよ。それにあんまり暴れると傷口が開くよ」
だから僕は、おもむろに口を開き、松田さんへの暴力を控えるように忠告した。
「虫垂炎の手術だからって甘く見ないほうがいい」
「…はい。気をつけます」
「うん。気をつけて」
「………」
僕達は、お互いになにも気付かなかったふりをした。
こうして半月に渡った騒動は幕を閉じ、捜査本部は元の状態に戻った。
数年後。
ぎぃと軋んだ音を立ててドアがわずかに開いた。
誰かがするりと部屋に入り込んできた気配に、書き物の手を止めて、老人が振り返る。
ドアのまえに、毛布に包まった少年が、こころぼそい顔付きで立ちすくんでいた。
どうしました?
問われると少年は顔をしかめ、恐るおそる、羽織っていた毛布を床に落とした。
毛並みの良い尾が、ふわりと布の下から姿を現す。
パジャマの胸に小さな膨らみが浮かびあがる。
ああ、なるほど。
窓外に満月。
老人は、優しい顔をして少年に微笑みかけた。
これはとてもよいことだ。何も心配は要りません。ただ少しむずかしい話をしなければならない。
眠くはないですか?
と、訊ねられて、ううんと首を振る少年に、老人は温かい両手をさしだす。
それではあなたのおかあさんの話をしてあげましょう。
お膝に乗りますか?
目を輝かせ、少年は肯く。
老人は目を細めた。
では、こちらにいらっしゃい。
── Come here, Hina?
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