満月に膨張L(11日目)
カチカチと音をたてる秒針がひとまわりして、60秒のカウントの始点を過ぎて行く。
「…一分、経ったんじゃないですか」
表情を固くして手を出せずにいた僕を、竜崎が冷静な声で催促する。そうだね、と机上に手を伸ばした。
鼓動が痛いくらいに鳴っていて、緊張のあまり、指先が痺れるような気さえした。
水平によこたわる、体温計の様な形状の、細長い検査薬を手にする。
結果は── 妊娠検査薬の小窓に赤いライン── 。
見た瞬間、すとんと何かが抜け落ちた。
── 陽性反応。
「……はっ、…はは、はは」
張り詰めていた空気が一気に抜けた。
そのときの僕の気持ちをどう表せばいいだろう。
全身がとろとろになった、熱せられたバターのように溶け出した、僕は形を保っていることができない。
足が地面から浮かびあがるような、こんなにもふわふわとした心持ちは生まれて初めてだった。湧き上がる喜びに頬が弛むことを止められない。心の中で小さくガッツポーズをして顔をあげる。
しかし幸福な心地は、竜崎の表情を見た途端にすうっと消失した。
「………」
竜崎は手錠の付いた腕を胸元で組み、いまいましげに僕の様子を見守っていた。
「── 嬉しいですか、月君」
と、突き放すような口調で問われる。
ふうっと迷惑そうな溜め息を吐き、視線を斜め下に落とす。唇をゆがめてボソリとこぼした。
「予想外ですね」
「……そんな」
「月君はまだ若い。子供ができることを喜ぶはずがない、と思っていました」
残酷すぎる科白を聞き、僕は打ち拉がれた目で竜崎を見つめた。
── 新しい生命への祝福を。
(…おまえは自らの子に授けるつもりは、ないのか)
「堕胎をすすめられるならまだしも」
「………」
「誤算でした」
「どうしてそんな嘘を…っ」
思わず声を荒げていた。冷淡すぎる態度に、体中の血があたまにあつまるような怒気を感じて耐えられなかった。
如何なる理由があるにせよ、竜崎の科白は糾弾するに値した。
「だったら何故、避妊しなかった!」
── 中に出してください。
女性であれば起こり得る、当然の可能性を受け入れたがったのは、お前のほうじゃないのか。
始めから可能性すら切って捨てていれば、こんな辛い想いをすることもなかったんじゃないか!?
「おかしいじゃないか、竜崎っ」
検査薬を机に叩き付けると、手錠の鎖がつくえの角にぶつかり、ガシャっと猛々しい音がした。
肩を竦めるようなしぐさを返し、うわめ遣いで睨んでくる竜崎は無言のままだ。
かっとして詰め寄ると、あまりの剣幕に圧倒されたのか、猫背が数歩後退しかける。その華奢な肩をつかんで前後に揺さぶった。
「痛いですよ。月君」
制止しようとして僕の腕を掴む、白い手はどこか弱々しい。横に伏せた顔には、わずかな苦悶の表情が浮かんでいる。
いつもの竜崎らしくない表情に責めようにも責めきれず、ごめんと呟いて手を離すと、竜崎はじぶんの身体をゆっくりと両腕で抱きしめた。
そんなに痛い思いをさせてしまったのか。
反省して、もう一度ごめんと呟くと、竜崎はふっと息を吐き出した。
黒い深遠の瞳で僕を見上げ、また顔を伏せた。
「…子供を欲しいと思ってしまった。それは事実です」
「………」
「これほどの例外が重なっていなければ、そんな気にはならなかったかもしれませんね」
と、親指をくちびるに押し当てた。
「わたしがこの姿になることは、おそらくもう二度とありません。
もともと満月の晩には窓辺にも近寄りませんから。そして現在の事件の状況も…、
容疑者である月君を手元に置きながら、キラの手掛りを見失い、捜査が中断してしまっている事態でなければ、きちんと避妊していたでしょうね」
言いあぐねるように爪の先に歯を立てた。
カリリと不安定な音を響かせた後に、濡れた指先をこぶしのなかにしまいこむ。
どうかしていました、と呟く。
「── 今なら、月君なら、と思ってしまった」
聞いた瞬間、僕はふいに泣きたくなった。
それはまぎれもなく告白だった。しかし幸福感はなく胸奥が鋭く痛んだ。
俯いて小さくなっている肩に手を伸ばしたい衝動に駆られ、ぎゅっとこぶしを固めて思いとどまる。
言葉が見つからない。
「月君はわたしの話をあまり信じたりしないようですが、たいがいわたしの話は本当なんです。
言いましたよね。わたしが女でいるのは二週間だけ。
通常はうまれたときの性が死ぬまで変わらない、しかし稀にわたしのように満月の光を浴びてフィメール化するものがいる、と。
…二週間だけなんです」
「………」
「二週間経てば、わたしは何があろうとも元に戻ってしまうんです」
胸を刃物で貫かれたような衝撃が走って息が詰まった。僕は愕然と立ちつくした。即座には、言われている意味が理解できない。
(……元に戻る?)
反芻してようやく脳が咀嚼を開始する。
しかし僕の心が理解を拒もうとする。
「じゃ…子供は…」
肩で喘ぐように言うと、竜崎は口早に小さく、すみませんと告げた。
その瞬間、あたまの中が真っ白になった。
たしかに捜査本部の部屋のなかにいるはずなのに、足元の床が消失し、ただ秒針の時を刻む音がやけに響いて聞こえた。
直後に、秒針のリズムを追い抜いて、僕の心臓の音が激しく鳴っていることに気付く。
「…子を孕んでも生むことのない身体なのだと、教えられたのは、初めてこの姿になったときですが、
そのときは漠然と、ただ仕方ないことなのだと思いました。わたしは随分と幼かったんですね。何もわかっていなかった」
唇の隅を曲げてかすかに笑ってみせる。
「現実が、こんなにも苦しいことだったなんて」
「そんな…」
「…すみません」
「あんまりだ…」
呻いた僕の声はおどろくほどに震えていた。無限に広がる哀しみとぐらぐらと煮え立つ怒りが同時にこみあげてきて、こめかみに激痛を覚えた。
血が上りすぎて、頭が破裂しそうだと思った。
「なにか、方法が、あるはずだろう。そうだろう?」
「いいえありません」
冷徹な即答は、僕を真っ向から否定した。
「…嘘だ」
相克する激情に呼吸すら乱れる。竜崎はゆるく首を振り、なにかを諦めたような哀しい笑みを浮かべて、なだめるような優しい声で告げた。
「いいえ。ありません。それがあるなら、わたしの方こそ教えて欲しいくらいです」
「だったら尚更…── っ!」
何故子を生す真似をした。
生まれることのない命ならつくることすら罪になるんじゃないか── と、怒鳴りつけようとした瞬間、唐突に気付いて息を呑んだ。
なにも僕だけがひとりで狂っていったわけじゃない。戻れないところまで想いが膨らんだのは僕だけじゃない。
心が変化したのは僕だけじゃなく、竜崎もおなじだった。つかの間の夢を見てしまった。幸福感を味わってみたいと思ってしまった。
もう二度と女性になることはない、Lの立場を捨てることはない、自惚れでもいい、その理由のひとつに僕があるのなら、
こぼれそうになっている苦しい想いを隠す必要はなかったんじゃないか。
先ほど伸ばしかけた手が今度こそ本当に肩を掴み、両腕で抱きしめる。
「…好きなんだ」
告げたら竜崎は苦笑して、知ってます、と呟いた。
「だから月君の子供が欲しいと思ってしまった。…だから月君に妊娠を知られたくなかった」
── ルナティック。
満月が竜崎を狂わせた。
音声の遮断された地下室の映像。
ぼんやりと眺める竜崎の背後で、夜神総一郎は疲れきった声をかける。
「……竜崎。いくら大喧嘩をしたからと言って、息子をまた監禁するなんて…」
月がふたたび監禁されてから三日が経過していた。
「些か大袈裟じゃないか?」
「すみません夜神さん。しかし今回ばかりは本気で身の危険を感じました」
「…そ、そうか」
二人の乱闘はなかなか壮絶なものがある。以前、キラ捜査に対する竜崎のやる気のなさを巡って一悶着あったときは、
部屋の植木鉢が引っこ抜かれ、高級テーブルが大破し、壁に見事な穴が開くという散々な結末を見せた。
色褪せぬ記憶を想起し、総一郎は、
ううむと唸ったきり黙り込む。
「……すみません、夜神さん」
竜崎はめずらしく謝罪を繰り返した。ソファのうえに踵を乗せた格好で、人指しゆびをしゃぶっている。
モニタ画面のなかでは月が延々と叫び続けている。
三日前からずっと。
嗄れるほどに叫んでいる。
監視者側に月の声は聞こえない。
音声を切っている。けしてスイッチをいれないように、捜査員には厳命が下っている。
しかし口の動きで分かってしまうのだ、竜崎には。
(何か手立てがあるはずだ!)
(ここから出してくれ)
(愛している)
(竜崎!!)
口内で舐っていた指先を伸ばして映像のスイッチを切る。以前ならば寝食も忘れるほど執拗にモニタ画面を覗き込んでいた、
粘着質の探偵にしては、めずらしいこともあるものだと総一郎は思った。
「……」
猫背が倦んだ吐息を吐く。
下腹部に強烈な痛みを感じたような気がした。
|