満月マンゲツ膨張ボウチョウJ(8日目)

久しぶりの外出に疲れたのか、竜崎はめずらしく僕より先にベッドに入った。
僕は、まだ少し調べたいことがあると告げ、部屋の明かりは消さないでもらった。ベッドのなかですうすうと寝息を立てる竜崎の隣に椅子を置き、膝のうえでノートPCを扱う。
ズボンのうえからポケットに手を当て、細長い小箱の感触を確かめる。
ドラッグストアで買い込んだ商品は、大型のビニル袋で三つ分にもなった。 竜崎は、その袋のすべてを僕に押し付けたので、 それを隠したまま部屋に持ち帰ることは、簡単だった。
『妊娠検査薬』
インターネットを立ち上げてそう入力し、検索ボックスをクリックする。
最初にヒットしたサイトは、その分野では有名な商品のページだった。
そこで僕は、知識を得る。
たとえば検査薬の使用適時は、まる一回分の生理周期+一週間後がもっとも良いこと。 そのころになると女性の体内では、ヒト絨毛性性腺刺激ホルモン(通称HCG:uman Chorionic Gonadotropin)がつくられるようになり、 検査薬は、このHCGに反応して妊娠有無を判断するということなどだ。
初めてセックスをした日から約一週間。
現在、仮に妊娠していたとしても、ごく初期だ。
陽性反応が出る可能性は、低い。
しかし竜崎の生体を、普通の人間の女性とおなじように捉えることはできない。
── 生物学的には、食肉目イヌ科のオオカミ種とホモ・サピエンスの双方の特徴を持つそうですが、 詳細はいまだ謎につつまれています。仮にもヒトですので、生体分析は生命倫理面において憚りがあり、進んでいないのです。
「………」
一週間前の記憶を辿る。
ことばを失っていた捜査員たちの前で、竜崎はそう説明した。
それを僕は、すべて虚いつわりだと根こそぎ否定した。
── 竜崎。もういい。もういい! つまりおまえは僕らを煙に巻きたいんだな?!
起きている事象も解説もなにもかも突拍子もなく、でたらめ過ぎた。 荒唐無稽な作り話にしか聞こえなかった。
それに僕は信じてもいなかった。
竜崎が、じぶんの素性に関わることで真実を語ることはない。
そう思っていた。
………。
本当に、
そうなのだろうか?
今更ながらに疑念がわきあがる。
仮に、もしそれらが真実だとしたら。
否定されることを前提に、竜崎が事実を話して聞かせたのだとしたら…。
僕は、まんまとのせられたことになる。
狡猾にも、信憑性の乏しさを逆手に取ったかたちで、ことばの罠は仕掛けられたのだ。
つまりすべて真実と捉えて思考する。
仮に竜崎の生体が、オオカミ種の遺伝的影響が強いとしたら、妊娠期間は約60日になる。 ヒトの妊娠期間は約280日だから、ヒトの4分の1以下の日数で出産に至る可能性もあるのだ。 HCGホルモンが分泌され始める時期も、ヒトよりずっと早いかもしれない。
検査薬を試す価値はある。
「………」
発光する液晶画面から目を離し、竜崎の白い寝顔を見つめる。瞼を閉じ、鋭い眼光が遮られたせいか、寝顔はひどく幼く見えた。
ただ僕にもわからないことはある。
── 頭を働かせてください。わたしが『女である期間』は二週間だけなんですよ?
記憶の中に、掠れた声がよみがえる。
あれはどういう意味だろう。
僕は、ことばの通りに鵜呑みにして、だとすれば新月以降はなにもかもが元通りになるだろうと思っていた。
僕の心の迷いもきっとすべて新月のように消える。
しかしそうだとすれば、もし妊娠していた場合、胎児はどうなるのだろう。
ともかく半月もすれば消えてなくなりますとの言葉通り、乳房や尻尾などと一緒に跡形もなく消えてしまうのか。 在胎週数が二週間の児が生まれるのだろうか。 それとも──


「………」
ふいに、すうっと大きな呼吸音がした。
深い睡眠のなかに漂っていたはずの竜崎が身じろぐ。
ドキリと心臓が跳ねる。
心音とは裏腹に落ち着いた動作で、ブラウザをひとつだけ閉じる。
竜崎の瞼が、ゆっくりと開かれる。
「月…君?」
寝ぼけた声音。
「…まだ起きてたんですか?」
「ん?」
今気付いたように目線をあげる。竜崎の位置からは、液晶画面の表示内容までは目視できない。けれどカムフラージュは怠っていない。
「はは。ネットの掲示板を見ていたんだ。有益な情報はなさそうだけどね」
そうですかと呟きつつ、ふあと欠伸をひとつ。
重たそうな瞼をごしごしと擦る。
怠惰なしぐさで身体を起こし、四足動物のような動きでのそりと椅子のひじ掛けに指をかける。
とろんとした半眼で液晶画面をわざとらしく覗き込み、目を丸くした。
「ああ、本当ですね」
「…なにが?」
エロサイト、見てたんじゃないんですね」
「え?」
「私が月経中でエッチできないから、ネットで発散しているのかと疑ったのですが」
「…あのね」
「予想がはずれました」
まさか勘付かれたのかと内心ひやひやしていたところ、ろくでもない戯言が出てきてうんざりする。 シャットダウンを選択して、ノートPCを閉じる。ベッド脇のテーブルに移す。
「いつだって誘ってくるのは竜崎だろ。過剰な性欲を発散させる必要があるのは、おまえの方だよ」
「月君はいつも口先ばかりの拒絶ですよ。つまり本心では望んでいると読んでいますが、どうでしょう?」
「…と言うか、身体の具合は?」
はなしの方向を無理に曲げて訊ねた。
「はあ…」
途端に、つまらなさそうな顔つきになった竜崎が、もぞもぞと身をよじる。付け心地を確かめているようだ。 ちなみに竜崎はいま、タンポンとナプキンの両方を一度に装備するという愚挙に挑戦中だ。
本気で意味がわからないけれど、まあ、せっかくのチャンスだから、どちらも試したかったのだろう。
「少し、気持ち悪いですね」
「どちらか片方にしないからだ!」
「タンポンってお腹を圧迫するような気がします」
竜崎が、顔を顰めてこたえる。
「だったら外す? トイレに行くなら付き」
「月君」
「ん?」
「月君が取ってくれないんですか?」
「は?」
厭きれた声で言われて、視線をあげた。
黒い瞳と至近距離でぶつかる。
竜崎がにやっとした。
その段に至ってようやく会話の脈に気付くとは、僕としたことが非常に鈍感だった。 つまり誘われていたのだ。
ポケットの中身にばかり気を取られていた。だから気付けなかった。
「…ああ、そういうこと?」
しかし気付けなかった鈍感さを、竜崎は指摘しなかった。
ほっと胸を撫で下ろせば、椅子のひじ掛けから場所を移した白い指先が、僕のふとももに乗せられる。
誘惑のありさまを明確にする。
「…月経中だろ?」
平静を装って常識的な質問をすれば、返ってくるのは非常識な答え。
「破瓜の血と思えばいいじゃないですか。きっと大差ないですよ」
「竜崎…」
ため息をこぼしかけた僕のくちびるに、柔らかい唇がかさねられる。 竜崎が、ひじ掛けと僕の太ももに自重を預け、猫背を伸ばしてくちびるを押し付けてくる。 吐き出せなかった息は、鼻から逃して、目を閉じた。
あまったるい水菓子のような舌先が滑り込んでくる。
そろりと愉しげな運び方で、指先が太ももから這い上がり、ジッパーに掛かる。それ以上触れられてはならない。だって気付かれてしまうだろう。
手首をつかんでやんわりと制する。もう片方の手で細い肩を押し戻し、 ぬめるくちびるを外した。
「僕のことはいいから、自分の服を」
ポケットのなかのかさ張りに気付かれないように、微笑を浮かべて隠蔽する。
動揺は、微塵も見せない。
「……」
竜崎は目を細めて同意する。鈍感は竜崎も同じだ。
そうして自己抑制のボタンがひとつはずれる。
ポケットの中の小さな箱が僕に覚悟を決めさせる。
こどものようにあどけないしぐさで僕の鼻をプッシュした── それは初めてのセックスの記憶だ。 歯止めを利かせるようにと指先ひとつで諭された。時間軸はそこからつながる。
ただし、もう捺されたまじないの効力は、ない。
──限界だよ、竜崎。
細い指が、布越しの輪郭をそろりとなぞって離れていく。
ひじ掛けをつかんでいた手の重みも遠ざかる。
赤い舌で自分のくちびるの周りを舐めながら、竜崎がふふっと微笑をこぼした。自らのデニムに指をかけて、 いとも容易く止め具をはずした。


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