屋上おくじょうにて】


 ふわああと退屈そうに欠伸をする。
 側頭部のしたに手を当てた死神は、まるで透明のベッドに横臥するような水平の体勢で、 空中をふわふわと上下しながら停滞している。
『来るかな、来ないかな──
 そう呟くのを、月は目を閉じて応じない。
 春の日差しに暖められたコンクリートのうえに仰向けに横たわったままだ。
 大学百号館の屋上。
 隣の建物内では法科生向けの一般教養の講義が行われている。
 大学の広い敷地内をふわりと通り抜けてゆく風に、月の前髪が揺らされる。風にまかれて薄っすらと舞いあがった砂は、稀に皮膚の凹凸にはまり、くちびるに付着してざらりとした 感触を残した。 
『いつまで待つ?』
 死神は、短気にも不平を募らせている。
 永遠を生きるくせにせっかちな性分のやつなのだ。月は耳を傾けない。 それに死神は勘違いをしているようだ。もともと月は待つためにここにきたわけではない。
 正門をくぐりぬけ、学生掲示板のまえに立ち、 そこでふと見上げた建物の高さに、すこしだけ眩暈を感じた。
 聳え立つ校舎は、月が知力で勝ち取ったヒエラルキーの象徴だ。 高さと比例するように迷路の階段は複雑化する。のぼり続けるほどにプレッシャーは増していく。 死神のように空を飛んでここまできたわけではない。それは選び取った世界に対する当然の代償であり、黒表紙のノートを手にしたことも、後悔はない。 あの特異な人物による追尾も、日次処理として規則正しく月の日常を記していく。承知の上のことだ。ただ──
 いくら新世界の神に足るべき強靭な精神力を有していようとも、たまにはこんなときもある。
 おそらく少し疲れていた。
 ほんの少し倦怠を感じていた。
 だから監視者の眼に会いたくなかった。
 顔も見たくなかった。
 なのに猫背の人影が視界の端を掠めたとき、背反の感情が月を縛り付けた。
 それは砂利を口に含んだように忌々しく、月にとって吐き気がするほどに不快な出来事だった。
 
 
『ライト』
 死神はうんざりするほどに気楽な傍観者だ。
『聞こえるか?』
「………」
 ククと低く笑う。
『見つかったぞ──
 同時に、ガシャンと鉄製ドアが閉じられる音がした。
 数秒ほど、躊躇いではなく伺うような静寂があり、ややのちに草臥れたスニーカーを引きずって歩く、 パタンパタンという力の抜けた音が近付いてきた。
 やはり追捕の手からは逃れられなかった。ますますと凝り固まる倦怠と諦観に、しかしわずかな安堵が入りまじる。 月の予測はどんなときでも正しいと証明されたからだ。
『かくれんぼはおまえの負けだな──
「こんにちは。夜神君」
 リュークの声を打ち消すように発せられた挨拶は、本人の意図ではない。
 死神が見えないのだから。
「お昼寝ですか?」
 とぼけた質問が投げかけられる。
 月はわざと一呼吸分の間を置いて、ゆっくりと目を開いた。
 しばらく瞑目していたために太陽が眩しい。
 右手を翳して目を眇める。
 スニーカーはすぐ頭の傍まで来ていた。
 ジーンズのポケットに手を入れたまま、真上から背を丸めてこちらを覗き込んでいる流河に対して、 うんざりと疲れた声と表情を繕う。
「なあ、僕の行動はおまえにすべて監視されているのか?」
「それは私がここにたどり着いた理由ですか?」
「ああ、そうそれ」
「偶然です。 正門のところで夜神君を見かけたので、声をかけようと思ってついてきたんです」
「嘘だ」
「なぜですか?」
「だって僕は流河に気づかなかった。僕は疑われていることを自覚しながら大学に来ているからね、 本当のことを言えば、いつも気にしているんだ。おまえはどこかにいるんだろうって」
「………」
「だけど今日は気付かなかった。つまり僕と流河の間には、それなりの距離があったはずだ。 それなのに、この建物に入った後、僕が、どの階のどの教室へ行ったかなんて、普通に考えても分かるはずがないよ」
「ああそういうことですか。一目瞭然でわかりますよ」
 さらりと素っ気なく流河がこたえる。とたんに月の心臓は小さく引き絞られるようにこわばり硬くなる。
 いったいどのような手口の尾行を試みているのだろう。
「だって夜神君と私は、赤い糸でつながれているんですから」
「は?」
 唖然として目をひらいた。
 あきれた物言いに二の口がつなげない。
 というよりも、このような非論理的なことを流河がくちにすること自体が信じられなかった。
 しばし見詰め合っていると、流河はめずらしく目元を緩めてわらった。
「というのは冗談です。…結論からいえば、ただの勘です」
 化粧のように黒々とした隈のある目を瞬かせる。
「………」
「たしかに私が見届けたのは、夜神君が百号館に入ったところまでです。すぐに追いましたが、見失いました。 片端から空き教室を探すという手もありましたが…」
 思案を巡らすようにことばを区切る。
── 刑法総論。夜神君はこれまで遅刻も欠席もしていませんね。それを今日に限って突然休んだ」
 がらりと話題が変わった。流河はくちびるに親指を押し当て、脳のどこかをさぐるようにあさっての方向へと視線を飛ばした。
「今までの行動パターンから考えれば、異例のことです。基本的に夜神君は、ご自身で決めたタイムテーブルから逸脱することを 好まれない。通学する電車の時刻も車両もいつも同一です。とても生真面目に行動する。なのに今日は理由もなくそれを破った。 意図的な逸脱。 もしこれをひとつの思考ロジックだとすれば、常にもっとも見当違いな選択肢を取ろうとする論理展開だと思いました」
「………」
「例えば最良ではなく最悪を。不自然なことを。あり得ないことを考え続ける、そういう思考の方法です」
 月は、のどの奥で小さく笑った。
「だからここに来ました。そうしたら」
 聞こえているはずの流河は気にしたふうでもなく、空のむこうに飛ばしていた視線をもどした。
── 夜神君は居ました」
「根拠も何もあったものじゃない。そんなものは推理ですらもない。こじつけだよ」
「はい」
 あっさりと首肯する。
 月はすんでの所で吐き捨てそうになった息を殺した。
「しかたないことです」
 流河は幼げなしぐさで親指を唇に当てた。
「私は人間なので頼ってしまうことがある。推理よりも”勘”というものに。── それをさきほど、 赤い糸と比喩したのですが」
「……」
「平易に言い換えればですね、つまり執着しているんです。キラに」
 あなたがキラだからだ。
 不快を表して眉間にしわを寄せたが、流河は子犬が足元に纏いつくほどの戸惑いも見せず、立ったまま深遠をのぞきこむような目で、月の顔を覗き込んだ。
 視線が垂直でつながる。
 空が流河の顔によって隠される。
 この男を相手に弱味を見せてはいけないという基本的な防衛方法を忘れていたわけではない。
 ただ流河のまなざしは、ときおりガードすらも打ち破るのだ。
 そしてこのとき牽制ビームはただしく的を射抜き、月の心をかき乱した。
 あなたをキラだと疑っています。
 あなたに執着しています。
 まなざしから伝達する無言のメッセージ。
 太陽を浴びて暗い影を落とす、流河の白い貌を見つめる。
 見つめるほどに、背からずるずると泥濘化したコンクリートの沼に落ち込む。
「僕もおなじだよ、流河」
 同じ力で押し返そうとするようにことばをつなぐと、首を傾けた流河がふいにかたわらにしゃがみ込み、膝を抱えた。
「なにが同じですか?」
「わからない?」
「はい。なんでしょうか」
 わからないふりをすることで、なにかを期待する素振りを見せる。そうして具に監視し続ける。
 月は小さく笑った。
「僕も流河に執着している」
「何故ですか、夜神君がキラだから?」
 鋭く問う。
 背反の感情が棘を刺す。
「違うよ」
 わざと溜め息をこぼす。
「…なんだ知らなかったの?」
 微かに唇のはしを緩めて笑った。
「…知らない、とは?」
「Lの洞察力もたいしたことがないなあ」
 予定調和の応酬ではないと、異なった思考のロジックだと告げたばかりの口が閉ざされる。
 月はどこか愉しげな気分で見つめた。
「僕は、流河が好きだ。だから執着している。知らなかったのか、流河?」
 愉し過ぎて──
「………」
 ……反吐が出そうだ。
 監視者の目がまんまるになる。
 まんまるになったまま、黒いインターフェースはじっと月を凝視した。
 取り込んだ表情や気配や声音の情報を、計り知れないほど緻密で美しい脳プログラムで処理し推理する。
 いまの月のことばにはなにかしらの裏があるのだろう。
 探るまなざし。
「…それは」
 しかし言いかけたきり、ことばを失った。
 ふわりと通り抜けてゆく風に黒い前髪が揺らされて、なんて脆弱なのだろう、と月は思った。



...つづき...