屋上おくじょうにて】


 おそらく流河にも判ぜられたのだろう。
 だからことばを失った。
 目を広げ、じっと伺ってくる黒い深遠の奥に不快を見つけ、月は発作的に笑い出したくなった。
 何の作為もなく告げれば容易く崩壊する。
 こんなにも簡単に。しかし忽ちのうちに推理は再構築される。
 ゆるぎない前提条件がひとつだけ決まっている。それが確固たるものであればあるほど、論理は自ずと明らかになるのだ。
「……困りましたね」
 表情を変えずに、流河がぽつりと呟く。
「それが答え?」
「…答え?」
「僕は流河に告白したんだよ。ふられる覚悟はできている」
「あ── ……いいえ」
「じゃあ?」
 問いかけると、ふいに流河の白い貌がすっと近付いた。コンクリートに片膝をつき、月の胸のむこうがわに手をあてる。 月に覆いかぶさる体勢だ。
 その先はひとつ。
 近づいてくる面差しの感情のなさに、反射的に目を閉じかけるが、思い止まる。
 告白したところで拒絶はないと考えていた。もとよりキスもセックスも経験済みで、 だとしたらこれは一体なんのためのキスなのだろうかという問いに対して、 答えとして胸に去来する柔らかい痛みから目を逸らす。 流河の髪のむこうに、死神の翼がちらりと見えた。事の成り行きを興味深げに見守っている、耳障りな笑い声がひどく忌々しい。 目を閉じることは必要だったが、死神の存在が見えていないと思い込むためにも、半眼に閉じるだけにした。
「………」
 キスは寸陰。
 乾いた唇はさらりと心地よい。
 しずかに皮膚の温度が遠ざかり、半眼を向けると、くちびるの端をゆびさきで払う流河が見えた。砂が付着していたのだ。気付かなかった。
「やはり夜神君らしくないですね」
「僕らしさって?」
「つまり”キラ”らしさです」
 こう何度目も牽制されれば、そろそろ効力を失いはじめるはずだが、流河相手だとそうもいかない。 堂々巡りの進歩のなさ。穏やかではないざわめきが胸奥を揺さぶる。
「なあ、それいい加減にしつこいよ。流──っ」
 苛立ちに声を荒げると、また不意打ち。流河の顔が近付く。しずかにキスが落ちてくる。内心で舌打ちをして、今度は少しも目を閉じなかった。
「………」
 キスは先ほどよりも深く長かった。
 柔らかい唇同士を触れあわせながら、口内で舌先を絡める。 唾液にすべる舌先の感触は、激しさの欠片もなく穏やかだ。キスの相手は、探る舌使いをしている── ように思えた。 流河には当て嵌まらない。流河はL以外の何者にもなりえない。揺るぎなく定められた前提だ。
 突如として沸きあがる衝動に、月は喉にちからを込めた。
 それはひどく都合のいい身勝手な感情だった。
 流河がLの立場を捨て、月に歩み寄ってくることはないのだ── と。
 思うと、何故か異様な怒気に血が沸いた。
「夜がっ」
 流河の背に腕を巻きつけて引き寄せる。とつぜんのことに驚き、身体をはなそうと腕に力を込める流河を自重で縛り付ける。
 至近距離で見つめながら、柔らかい微笑を浮かべた。
「誤魔化し方が下手過ぎるよ」
「……なんですか」
「こたえをくれないのか?」
 尚も力をこめて抱きしめた耳元に囁きかける。
「僕は、君のことが好きなんだ」
「………」
「こんなにも好きなんだ」
 甘えるように掠れた声で告げてみる。
「どうして分かってくれない。好きなんだよ?」
 揶揄する口調でささやきながら、右手をすべらせデニムのウエストのすきまにそっと差し込む。 触ればたやすく反応する過敏な皮膚は、きめ細かくなめらかで人としてのあたりまえの温みをもっている。引き締まった腰の筋肉のありようを手のひらで確かめながら、月は微笑む。
「……こんな、ところで」
 不快そうな抗議にくすくすと笑いかける。
「ん?」
「人が来たら…どうするんです」
「……見せつけてやればいい」 
 低く吐息にのせて嘯いてみせれば、流河の白い顔が嫌悪に歪むのが間近で愉しめた。
「悪趣味ですね」
 あきらかな侮蔑を混ぜて吐き捨てながらも、月はとっくに反応しはじめている流河の身体を知っている。 ウエストのすきまをぐるりとなぞりながら、器用なゆびさきを腹部の方へと移動する。服の上から陰茎に触れてみれば、 拒絶する表情とは裏腹にとっくに昂ぶり始めている。熱さと硬さはいっそ哂えるほど。
「いつだって流河は口先だけ」
 シャツの背をぐっと掴んで抱き寄せる。
「……っ」
 同時に、直接陰茎の根元にゆびを巻きつけつよく握れば、ひずんだ吐息が血の気の薄いくちびるから零れた。 眉間に薄っすらとしわをよせ、まつげを伏せる。
 よくよく間近で見つめれば、流河の睫毛はひどく長い。
 そんな場違いな感想をそっと耳元に囁き、 からませた指を根元から先端へとゆるやかにすべらせる。
「…あっ……っ」
 自重を支えるためにコンクリートについた手の五指に、不自然な緊張がはしり、第一関節が小さく折れ曲がる。 月はくちびるを緩く釣り上げ、その反応をいっそう煽るため、何度も繰り返し上下した。薄い皮膚のしたの敏感すぎる神経を刺激する。 たちまちのうちに弾みだす呼吸。
 苦しがるように黒い髪をぱさぱさと乱して、首を振る。
「気持ちいい?」
「やが…み」
 湿った甘さにゾクリと官能が腰を貫く。顎を突き出し、舌を伸ばし、流河の鼻先をそっと舐めた。
「あっ……」
 引き抜いた指をデニムのボタンに寄せ、金属の留め金を押し出すように外し、発熱する性器に直接ゆびを絡ませる。 ガクリと右のひじが崩れる。月は笑いながらなおも強く痩身の背を抱き寄せ、執拗に陰茎を弄りつづける。 先端の粘膜をゆびの腹でなんども撫でると、抵抗の限界を悟ったらしい。 ふるえる腕に力をこめ、ゆっくりと両肘を折り曲げて四つん這いの姿勢になり、月の頬に、そっと自分の頬をこすりつけた。
 無言の了承。
 甘える仕草をそのまま返し、頬を擦りあわせる。
 さらさらと茶色の毛先が頬を掠めるこそばゆさに、流河はぴくんと肩をすくめた。月は笑いながらシャツを掴んでいた手を放した。
 両手でデニムを下着ごと引き摺り下ろす。
 陰部を剥き出しにされた格好に羞恥した流河は、目元を赤らめる。 月は、片手では肉付きの薄い臀部をまるく撫でながら、もう片手では前の熱いかたまりをいっそう強く刺激した。 ぬるぬるとした液体が滲みだし先端をおしひろげるように弄ると、短くするどく息を吸った。
「ん…っ」
 喉の奥で声を殺し終えたあとに、鼻に掛かったような吐息を漏らす。湿った息が鬢をかすめてコンクリートに落ちる。
 甘い匂いに淫靡な神経がするどく疼き、月がひっそりと唾を飲み込むと、吐息に混ぜて絶え絶えと流河が呟いた。
「たしは、……ちがい、して、ました」
「んー。よく聞こえないよ、なに?」
 臀部から手を離し、首筋の裏に触れる。細く骨張った首をぎゅっと片手で締め付けて、少しばかりの距離をとる。竜崎はぶるりと背筋を震わせる。 息を整えるために深呼吸をして、ぽつりと呟く。
「かんちがいを。」
 月は手の動きを止め、目前のふるえる睫毛を見つめた。
 ひとつだけ、と流河が付け足す。
「夜神くん、は、」
「………」
「生真面目、だから」
 おもわず目を見開いた。
 見つめる先の表情、伏せた顔の目尻には涙がたまっている。 重たそうにまばたきをするほど眼球の表面で集約されるなみだは、すぐにも滴りそうなほどだ。
 その睫毛が幾度か震え、うえに持ち上がり、快楽に濡れた瞳が現れる。
「始めることにも、理由が必要ですし、終わらせるためにも、」
「………」
「理由が必要となるでしょう」
 人間離れした深遠の瞳が細く遠ざかる。そこで月は始めて意識した。
 なにかが音叉のように共振しはじめた。
 急激に接近してきたのは、危機的な鼓動の高まりだ。
 否定しなければならないという強烈な危機感。
 流河の中の異変が、月の内部に警鐘を鳴らしはじめる。
 脳が軋んだような気がした。これは罠だ。手酷い誘惑だ。
「それでも理由があれば── 自分自身を裏切るような、 とても難しい作業かもしれませんが、── 途中で階段をおりることは、できるのです」
 じわりじわりと意識がコンクリートの泥濘に沈む。大きいはずの瞳が小さく見える。
「なにを、言っているんだ」
 まさか、そこに込められているのは。
 微笑むような、
 ── 色は。
「私は、そのために──”L”でいるのです」
「意味がわからないな、流河」
「夜神、君。あなたを、キラだと、疑っています」
「………」
「ですから、あなたに、告げることはできません」
「………」
 ですが、と呟く。
 そこに躊躇いを感じてしまったのは月の錯覚だったろうか。
「あなたが私を終わりの理由とするなら、……私も、」
「………」
 目を見開く。
 そのとき流河が浮かべた表情は、見たこともないほど優しく──
「本当のことを言えるでしょうね」
 呟いた流河の、存在しないはずの感情に、喉がカラカラに干上がるような錯覚がした。
 月は、笑おうとしたがうまく笑えなかった。
(……私も、)
 何だって言うんだ。
 それは、
 まったく意味がわからないよ、
 何を言っているのか分からないよ。
 ── L。
 L。
「………」
「……私は、」
 ゆるぎない前提条件がひとつだけ決まっている。 すべての状況は、前提条件という縛られたルールの元から流れ出して結末へと向かい収束する。
 つまり月にとっての一冊のノート、Lにとっての名前と云う立場。しかし、そこに、たとえば最良ではなく最悪を不自然なことをあり得ないことを考え続ける、思考の方法を置く。
── ”キラ”らしくない、ということです。)
 呆気なく打ち砕かれる。
 あり得ない仮定、もしも手に入れられるというのなら、流河は本気で告げるのだろうか、月が迷夢の階段を降りるというのなら。 胃の中からねばつく液体がこみあげて吐き気がする。対峙するビルの屋上から身を投げる恐怖を、身の毛のよだつ思いで否定する。
 どちらかが、どちらかの死を見届けるのだ。それ以外の結末など認めていいはずがない。月はなんでもいいからとにかく殺さなければならない。
(私は、そのために──”L”でいるのです。)
 影を落とす流河のむこうに、厭になるほど高い空がある。高すぎる屋上から飛び降りれば、きっと死ねる。 そうでなくとも一歩足を踏み外せば、墜落死するしかないのだ。もうとっくにそんなところまで上って来てしまっているのだ。 次第に月のなかに殺意が沸きあがる。 認められないしかし黙殺もできない。だとすれば抹消するしかない。
「……僕は、」
 しかし言いかけたきりことばを失う。
 脆弱なのはおまえの方だ。
 心の隅でちらりとだれかが囁きかけるが、月には聞こえない。 新世界の神として君臨する人間には聞こえてはならない声がある。ふわりと通り抜けてゆく風に前髪が揺らされ、 胸の中の背反の声を抹殺する。
 弱いのは流河の方だ。こんな卑怯な手で陥落しようとするなど甚だしく論外なのだ。
「僕は、キラじゃないよ。流河」
 月は、柔らかい表情でほほえんだ。



「あ、あぁっ……」
「くっ…──
 コンクリートの屋上に、四つん這いになった腰をつかみ突き上げる。
 狂ったように腰を振りつづける。熱い粘膜は、月に正しく絡みつきはなれていくことを許さない。 月の肉体は愚か、果てには心すらも縛り付けて手放したがらないようだ。考えるだけでも反吐が出るほどおぞましい。 つながった部分も血液も脳のなにもかも沸騰するほどに熱いのに、大学の広い敷地内を通り抜けてたどり着いた風がふわりと過ぎ行くと、 吹き出た汗が瞬時に凍え、ひどい悪寒が走る。
 しかし異様な高揚と疼きが月を性急に追い立てる。
「ふっ…あ……っああっ」
 流河の、震える先端から白く濁った体液が、音が聞こえるほどの激しさで吐き出される。それでも激しく手加減なしに突き上げる。 ガクガクと揺さぶられる体は、ひとときの休息も与えられず、疲労困憊して、引き攣った声を発する。
「も、やめ、……夜神っ、あ……あっ…」
「っ……」
「…ら、い」
『オスの交尾か。おもしろー』
 空中をふわふわと停滞しながら、死神は無邪気に笑う。月は音のない声で笑った。わらいながら流河の奥深いところだけを 責め続けた。快楽に咽ぶあえぎというよりは、悲鳴じみた声を聞きながら、空を自由に飛べる翼が欲しいとすこしだけ思った。



...終り...