おんな


 月の身体がこわばった。
 それは私の耳の裏側に月がキスをした瞬間だった。
 
 私たちは寝室のベッドで折り重なるように抱き合って、おまえの方こそ細すぎると戯言を言い合いながら、お互いの身体に腕を回していた。そうして抱き合いながら、衣服のうえから互いの肌の温みと肉の弾力を楽しみ、肌や髪の匂いを楽しみ、互いに何度もくちびるを押し当てあってキスを繰り返していた。
 その最中だった。
 私の首筋に顔をうずめた月が、なにかに驚いたように、とつぜんはっと息をつめて身を固くした。月の全身のこわばりをダイレクトに体感した私は怪訝に首を傾げて、どうしましたかと訊いた。
 しかし月はそれには答えず、数秒の後に、ゆっくりと覆いかぶさっていた身体の重心を右に移動した。
 月のかたちのいい頭が右に逸れて薄茶色の髪がさらさらと私の頬をこすり、微細な刺激がこそばゆくて、私は微かにわらった。
 そうしながら月は、私の髪を掻きあげて、首筋のさらに奥へと―後ろのほうへと舌を伸ばした。
 ぐっと身体が押し付けられて重くなる。
 ふたつの手首に絡んだ鎖がじゃらりと鳴る。
 ぬるい舌先がおくれ毛のあたりをなめらかになぞり、耳朶にふれる。
 舌が濡らしていった軌跡はぬるぬるとしつこく温んでいて、舌先の感触の残滓は気が遠くなるような、ゆったりとした快楽を全身に伝えてくれた。蜂蜜にひたされたようにとろりと滲む、快楽の揺り籠だ。ここちよく意識をたゆたわせていたそのとき、月が、かすれた声で耳打ちした。
「竜崎、おまえ」
「……はい」
「浮気した?」
「―はい?」
 囁かれたセリフのあまりの意外さに、私はとろりとした半眼をぱっと見開いた。
「なんですか、それ」
 いきなり、どうしたというのだ。
「おまえ、女としてきただろ」
 月の気配が変化する。
 耳元の呟きは、押し殺した低い声色だった。
 続けざまに耳を軽く噛まれる。
 その瞬間、腰の奥から沸騰するように鳥肌が立ったのは、舌先の愛撫だけでなく、いっそ月のセリフに官能を感じたせいだろう。
「おまえ、やったんだろ。女と」
 品位に欠けた、抑揚のない断定的な言いざまは、嫉妬する情夫の口舌よりも生々しい焦燥が底のほうで凝っていた。
 口を閉ざしてじっと天井の埋め込み型のライトを凝視した私は、黙ったまま、くちびるを歪めて目線を揺らした。
 そして―なぜ、わかったのだろう、と考えていた。
 シャワーを浴びて、服も着替えた。逆にそうしてしまったことが悟られた理由だろうか?
 だとすれば、シャワーを浴びずにいればよかった。―否、彼女は甘く華やかな香水をつけていた。抱き合ったら匂いが移る。鼻のいい月のことだからすぐに判じただろう。
 シャワーを浴びても、浴びなくても、どちらも同じことだったかもしれない。

 二時間前。
 たしかに私は女とセックスをした。
 相手は、ウエディだった。



 捜査本部の特殊なセキュリティを濡れた薄紙にひとさし指で穴を開けるようにこともなく突破して、捜査室にふらりと現れた抜群にスタイルのいい女。
 金髪碧眼。整った卵形の貌。いつも黒いサングラスをかけて、身体のラインを強調するスタイリッシュな服を身につけている。
「リュウザキ」
 偽名を適用する捜査室の取り決めに従い、ウエディも私を”竜崎”と呼ぶ。しかし彼女にとって“竜崎”という名前は発音が難しいのか”ザ”が”ジャ”に聞こえなくもない。
 声をかけられて、クリームあんみつの器を片手に持ち、スプーンを口に運びながらパソコンに向かっていた私は、椅子のうえで首だけをぐるりと後ろにねじ曲げた。
『どうしましたか、ウエディ』
 ウエディはフロアの中央に立ち、なめらかで細い両腕を胸のまえで組んでいた。
『話がしたいわ』
『用件は』
『場所を改めてくれないかしら。そのボウヤがいたら不都合なことなのよ』
「月くんに聞かれたくないことでしたら、耳栓をさせますが?」
 とたんに隣の夜神月が顔をしかめた。
 日本語に不自由なウエディに対して日本語で返したのは、軽い冗談だ。
 英語のやりとりでも語学に達者な月は理解できただろうが、しかし日本語で言ったほうが効果的だった。つまりは月が明確にいやがって険しい顔付きをするところをなんと無く見たかったのだ。現在、ヨツバのキラを罠にはめるための準備中、とくに退屈を持て余しているわけではない。
 ただ月は、感情をうまくコントロールしているように見えて、案外できていないところがある。からかい甲斐があっておもしろいのだ。
 フランス語やポルトガル語に精通していても、日本語は不自由なウエディは、真っ赤なくちびるを歪めてただ嫣然と笑った。何を言っているのか分からずとも、私の返答がジョークであることは場の雰囲気から察しているようだった。アメリカ人にはウけるジョークのつもりだったが言葉が通じず残念だ。
 ウエディは私からの反応を待つように黙ったまま、じっとこちらを見ていた。 彼女が話し出さないので今度はこちらから確認する。
『内緒話がしたいんですね、ウエディ』
 ウエディは胸の前で組んだままうなずいた。
『そうね。少し踏み込んだ―込み入った話よ。あなた以外には聞かせられない』
『困りました。基本的に私は彼と離れられないことになっているんです』
『でも彼をこちらの事件に巻き込むわけには行かないの』
『事件?』
『わかるでしょう?』
『……』
 思わず口を閉ざした。
 事件?
 それは一体何を意味する。
 言外に含ませた彼女の意図を推し量る。
 事件を追い、犯罪者の心理を観察し続けていると、雑多なことにまで敏感になる。 たとえば表情の変化、雰囲気、そして何よりも目の色だ。感情はとくに目のなかに滲みやすい。
 ウエディはサングラスをかけているので目の色や表情までは分からない。(日本のことわざに『目は口ほどにものを言う』とあるが、至言だ。目は大脳と直結した神経の集大成なのだから)しかし紅い三日月を描く女のくちびるをじっと見つめた私は、それが誘惑の口上であるのだと覚った。
 理由は大きくふたつ、在る。
 まず第一に―、『こちらの事件』と彼女が言ったこと。
 そんな事件は存在しない。事件など起きるはずがない。キラ捜査のために、彼女がここへ来ている間は、その他の一切の事件から手を引いてもらっているのだ。
 そして第二に―、彼女が微笑んでいる。
 ウエディはスマイルを気安く振りまくタイプではない。常にクールな姿勢を崩さず、彼女の美貌に下心を抱くようなふやけた男をけして寄せ付けることはしないのだ。
 その彼女が、私に向かって笑みを浮かべている。
 誘惑している。
 ―おもしろい。
 私に興味があるのだ。
 その好奇心に対して私は興味を抱いた。
 それに私も男なので、ウエディのように魅力的な女性から誘われて悪い気はしない。
 私は即座に、仕事上の一時的なパートナーである彼女と深い関係になることで生じる不都合をいくつか検討してみたが、寸陰で思いついたリスクはどれも私の興味を削ぐほどの理由にならなかった。
 彼女は魅力的でとても興味深く、そして私を愉しませてくれそうだった。それが最大の理由だ。
 ウエディ、と女の名を呼ぶ。
『重要な情報だと信じていいですか?』
『勿論』
 彼女はとても頭の回転が速い。
 私の言ったことばの意味にすぐさま気付き、悠然と微笑みながら頷いた。
『すごく重要』
 合意のサインだった。



「竜崎」
 話を聞いていた月が不満げな声を出す。椅子を回転させて私を睨みながら腕組みをする。
 一度は自ら拘束を望んでまで、キラ容疑を晴らしてほしいと申し出た男だ。
 手錠で二十四時間つながれつづける状態をやりすぎだと思いつつも、はじめに決めたルールを中断することにはやぶさかではないらしい。 月はにっこりと極上の微笑みを浮かべながら訊いてきた。
「今の話、聞き間違いでなければ、僕を置いてふたりで打ち合わせをするという風に聞こえたけど?」
「はい」
「合っているんだね」
「そうです。その通りです」
「だったらその間、僕はどうなるのかな?」
 わかっているくせにわざとらしい回りくどさで確認してくるのは、不服であるという意思表示だ。こちらもわざと気付かぬ振りをしてくちびるに親指を寄せる。
「申し訳ありませんが、月くんにはここにいてもらいます」
「ここに」
「椅子に鎖で固定させていただきます。恐らく二時間程度、私は席を外すことになると思います」
「僕をひとりで残してか?」
 奇麗な顔の眉間に小さな皺が寄る。
 くちびるの端を小さくつりあげて笑いながら、大丈夫ですよと私は告げた。
「みなさんもいらっしゃいます。寂しくなんかありません。しかし月くん、先にトイレを済ませておきましょう。私が帰ってくるまで鎖で拘束されて、みじろぎひとつできない状態になります。申し訳ありません」
 有無を言わせず告げてやると、月は微笑みから一変してあきれた顔をつくり、ふうっと重たい溜め息を吐いた。
 私の傍若無人なやりくちは手錠生活をはじめた半日で、月が半ギレしたほどだ。
 以来、月の辛抱強さは、手錠でつながれる前の五十倍くらいになったと予想する。
「せめて手ぐらいは自由にしてほしいけど」
「……」
「どうやら無理そうだな」
 やれやれと呟き、月はトイレに向かうためにゆっくりと立ち上がった。



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