刺青の施術描写あり。痛いことが苦手な方は要回避。
刺青いれずみ


 タトゥーマシーンの電源を入れる。
 回転子の運動音がにぶく響き、束ねられた針の先端が上下の反復運動を始める。酷く耳障りでいやな音だ。緊張の面持ちで、月はしずかに処置台の手すりを握りしめた。
 優等生である月は、殴りあいの喧嘩も、大きな怪我もしたことがない。施される痛みを想像できない人間は、ただ覚悟するしかない。
 猫背をいっそう丸く屈めたLが、タトゥーマシーンを近づけてくる。月は、腹部をあまり動かさぬように胸式呼吸を繰り返し、Lの指先を見つめていた。が、横になった姿勢で自分の腹部を眺めることは案外首が疲れるものだと知り、首を落として天井を見上げた。
 そのとき何かが肌に触れ、鼓動が跳ねた。
 もちろん皮膚に触れたのは、束ねられた針の先だ。
 KIRAの文字のはじまりのKの字に、細い鋼が刺さる。鋼が色を沁み込ませていく。
「……っ」
 鋭い痛みにおもわず息を詰める。
 刺青を施されていく部位は、尖った氷に触れたように一瞬ひやりとして、直後に燃えるように熱くなった。針のかたまりがゆっくりと皮膚のうえを辿り行く。痛みは徐々に移動する。急激に、月の心音は高まり、じわりじわりと全身から汗が滲み始めた。
「耐えられますか?」
 施術をはじめてすぐにLが訊いた。
「月くん?」
「……」
 こたえられなかった。
 口を開きたくなかったからだ。
 声を出せば痛みに引き攣った声しか出ない。口を開けば乱れた息がこぼれる。その無様をLに見せたくなかった。相手がLだからこそ尚のこと。
 きっと皮膚が薄すぎるせいだろう。全身で最も痛覚が敏感だという腹部への刺青は、果たしてたしかに烈しい痛みを伴った。表層の傷なのに、内深くまで切り裂かれるような錯覚があった。じっとりとひたいに汗が滲む。不慣れながらも丁寧で慎重なLの手の動きにしたがい、絶え間なく肌が切り裂かれてひきつる。
 月はゆっくりと目を閉じた。
 痛みに耐えようとして、意識を現実から遠ざけた。
 そしてLと過ごす未来を想像した。
 犯罪に恋して生きるLは、自分を片腕として思う存分酷使するだろう。Lの部下になるのはやぶさかではないが、退屈を持て余す暇もないほど忙しく、知的興奮に満ちた日々がもうすぐ手に入るのだ。それが愉しみでないわけがない。
 しかしキラとして敗北したところで、月が犯罪者を憎む気持ちに変わりはなかった。Lの元に舞い込む事件は、恐らくこの世でも類を見ないほど、残酷で、非人道的なものも、多いだろう。そんな事件に遭遇したとき、月は死神のノートが手元にないことを悔やむことがあるかもしれない。
 ふたたび手に入れたいと願ってしまうかもしれない。
 だから、そんな時は、腹部の刺青を見ればいい。
 痛みは一過性。
 永遠には続かない。
 それでも人が傷つくとき、血を流すとき、死に至るとき、必ず痛みが伴うことを、Lは、月が忘れそうになることを絶対に忘れさせまいと肌に刻むのだろう。
 ふいにタトゥーマシーンが動きを止め、アウトラインが彫り終わったことを知る。月はゆっくりと目をひらいて瞬きをした。霧が立ち込めたように頭がぼんやりとしている。
 どれほどの時間が経過しただろうかと、時刻を知りたくて頭を揺らしたが、よくよく見てみればこの部屋には時計がなかった。時計を確認することで時間の流れを意識することに慣れた脳は、羅針盤を取り上げられた航海士のように、時のなかで迷子になりかけて、途中で、Lが機械彫りにおよそ一時間と試算したことを思い出す。
 つまりまだ一時間しか経っていないのだ。
 小さく息を吐く。
 Lも息を落とした。空気が揺れて血のにおいが届く。患部はひりひりと痛み、痺れている。
 腹部をいまは見る気になれない。
「休憩をとりますか?」
 Lが事務的な口調で訊ねる。
「いや、続けて」
 早く終われ。
 そう念じながらこたえた。
「これくらいなら、どうってことじゃない」
「はい」
 Lは二段式カートの方に移動して、彫るための器具を持ち替える。
「月くんは強いですね」
 そう呟いた。
 月に背中を向けているLの表情は、月に見えない。
 月は、その言わんとするところを訊ねようかと思ったが、振り返ったLを見て口を閉ざした。終わったときにもう一度聞いてみようと思う。
 手彫りの器具を握りしめ、ふたたび月に近付き身をかがめたLは、もう無言で針を押し当ててきた。一針一針を押し込むような手付きの施術に、機械のときのような切り裂かれる痛みはない。しかし一針の重みが数十倍も違っているように感じられた。針が抜かれた一瞬に気が抜け、直後にふたたび全身が貫かれる。
 朱色のイメージだ。赤。
 リンゴのいろ。血のいろ。生命のいろ。
 KIRAの文字に色がつく。
 命が宿る。
 施術の途中から、頭の奥がじんと鈍く痺れ、思考がうまくまとまらなくなっていることに月は気付いていた。針先に塗られていた遅効性の毒に、全身を侵されたような気だるさがあった。わずかな力を込めることすら億劫だった。そして長時間の辛苦にもう限界だと感じたとき、
「終了です」
 意識の遠く、Lの声が聞こえた。
「おつかれさまでした」
「……」
「月くん?」
 発熱したようにうるんだ目でLを見あげる。
 黒い瞳は平たい光を放ち、月を見下ろしていた。
 やたらと重たく感じる頭を起こして、月はKIRAの刺青に目を向けた。途端に、目に飛び込んだ鮮やかな赤に思わずうんざりとする。
「血が」
 呟いて再び処置台に頭を落とした。
「まだ血が滲んでいるじゃないか。そんな状態で終わったなんて」
「見ておいて損はないと思いますよ」
「L」
 呼びかけて息をつぐ。
 呼吸をするたびに身体は痛んだ。
「僕は、血がきらいだよ」
「そうですか」
 Lはどうでもよさそうな声で相槌をした。実際にどうでもいいことだったのだろう。つまらなさそうな表情で消毒用エタノールを摘み、脱脂綿を湿らせて患部を拭い清める。その後アフターケア用のクリームをうすく塗り広げ、透明なフィルムで患部を覆った。
「なに、そのサランラップ」
「サランラップじゃありません」
 医療用ですよと呆れたようにLが言った。
「施術部を乾燥させないためのシートです。色素を沈着させるためには、しばらくこの保護フィルムを張っておく必要があります」
「そう」
「ですから傷が治るとき、無性に痒くなっても剥がさないでください」
 念を押し、Lがぎこちない手付きで保護フィルムの四つ端をメディカルテープで固定して、施術のすべては完了する。
「寝室に」
「ん」
「今日はもう横になって、やすんで下さい」
 短く告げて、Lが手を差し伸べてくる。
「立てますか?」
 月は肯いた。
「大丈夫だ。ひとりで」
 言いながら処置台の手すりを握り、ゆっくりと身を起こす。Lの手を借りるなどプライドが許さない。痺れるように痛む腰を庇いながら、人肌のぬくもりで暖まったビニルマットの上を尻で摺り、つめたい床に足を下ろした。大腿部に力を込めて立った。
 その瞬間、膝ががくんと折れて、月はその場に崩れ落ちそうになった。
「……っ」
 月は咄嗟に手が伸ばし、Lの腕を掴んだ。縋るものがそれしかなかったからだ。氷柱のように細いくせに強靭なLの腕は、倒れそうになった月の体を難なく支える。
「大丈夫ですか」
 平坦な調子で告げる。Lは驚き慌てた様子もなく、月の腕をそのまま自分の肩に回して歩き出した。月の腕を握るLの手はやけに熱い。
「痛みに耐えることは、思ったより体力を使うことなんです。月くん、やせ我慢はやめましょう」
「……」
「行きましょうか」
 そう言って部屋を出た。
 廊下を支えられて歩きながら、月は黙ってLを見つめた。気付きながらも振り向くことをしないLの、真っ白いくびすじは薄っすらと赤い。普段はどこもかしこも白磁の西洋人形のように真っ白いのに、今日はなぜか肌のしたの血の色が透けている。
 そこで月は気付く。
 Lは興奮している。おそらくは月の裸体か刺青と血の色に酔ったために。どちらが原因であるかは分からないが、どちらにしろLの変態じみた興奮の有り方に、月は思わず笑ってしまった。



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