微パラレルです。Lもキラも生きている世界。
【刺青】
犯罪者の待遇としては過度に贅沢だった。
彼は、戒めの枷や鎖すら手首に嵌めていない。
アンティーク調の装飾品で統一された広い室内。その中央に据えられた革張りソファに腰をかけ、夜神月は悠然とティカップを口許に運ぶ。月の真向かいのソファには、いつもの姿勢でしゃがみこみ、ポーションミルクを入れすぎて白っぽくなった紅茶をただ漫然と掻き混ぜている、Lがいる。Lが指を動かすたび、ティカップにスプーンが当たり軽やかな音を響かせる。
Lは思案中だった。
「さて、どうしましょうか」
「如何様にでも」
Lが問えば、稀代の大量殺人鬼は、秀麗な微笑を添えて優雅にこたえ、ティカップをソーサに戻した。
演技めいた口ぶりがよく似合う。タイトなシルエットのズボンに包まれた長い足をゆっくり組みかえると、ハイネックの襟元で色素の薄い茶色の髪がさらさらと揺れた。
紅茶の水面に映る、まばたきがひとつ。Lは、ティカップの水鏡から目線をあげた。
月の微笑は、優雅な室内において王として君臨する者のように傲慢だった。
「おまえが下す裁きだったら、なんだって受けてやるよ。L」
そう告げて、微笑をさらに深くする。
Lは口許を小さく引きあげた。月の傲慢な態度に心底飽きれ、そして少しだけ感心したのだ。数多の犯罪者を死のノートで殺め、みずからを新世界の神などと称した高慢な精神は、惨めな敗北を喫したあとも根本的なところでは些かの揺らぎも無いようである。
(『なんだって受けてやるよ、L』)
(『おまえが下す裁きだったら』)
つまり彼は、言外に「死刑」でもかまわないと告げていた。
ただ同時にそうはならないだろうと高を括っていることも透けて見えた。
なぜなら『死』以外でなければ、YB倉庫で敗北したキラを、Lがわざわざ手元に置いた理由がないからだ。
Lは、YB倉庫の事件を、キラの惨めな敗北を、辛抱強く待っていたのだ。ワイミーズハウスの子供たちに、ニアとメロに、命運を委ねてキラが堕ちることを、待っていた。
「夜神月」
(『さて、どうしましょうか』)
そうしてLが、月に問いかけたのはキラの処罰の内容だった。大量殺人犯キラとして確保された夜神月の身柄は、本来であれば、ICPOに引き渡すべきところだったが、Lはそうしなかった。Lというみずからの手で断罪することに決めたのだ。
紅茶を掻き混ぜていたスプーンをソーサに置き、Lは親指をくちびるに押し当てる。
固い爪に歯を立てる。
「選ばせてあげます」
「どんなのを?」
「ひとつ。もう二度と人の顔をみることができないように目を潰す」
「……」
「ふたつ。人の名をノートに記したその両手を落とす」
人の顔を見ることで名を知り、人の名前を綴ることで命を奪う、その奇妙な殺人に対する残忍な刑罰の提案を羅列する。月は顔色ひとつ変えずに聞き、沈黙したままLを凝視する。その冴え冴えとした美しい貌を見つめ、Lは愉しげに目を細めた。
プライドもなにも泥にまみれ血にまみれ屈服させて、ようやく掌中におさめたのだ。美しく、知力に富んだ、自分を永遠に殺しつづける殺人鬼『夜神月』。
「みっつ。腹部に、いれずみを彫る」
「……」
『KIRA』と。
言った途端、夜神の目がおどろきに揺れた。
「そんなことで僕を許すのか?」
「入れ墨は、古くは刑罰を表す言葉です。ただし三つ目には条件がつきます。今後、月くんに一切の自由はなく生涯私の監視下に置かれ、Lの片腕としてその優秀な能力を捧げることになります。逃亡は不可能です。例外はありません。ご家族が亡くなられたとしても、私の傍から離れること、帰国することを許しません」
「……」
「どうしますか?」
月は真顔になってLを睨みつけた。
そしてふいに柔らかい微笑を浮かべた。組んでいた脚をほどき、Lに向かって歩み寄る。
テーブルを迂回して近付いてきた月が、腰をかがめ、Lの頬にそっと手を添える。黒い瞳を揺らしもせずに見返すと、月はしずかに目を閉じて顔を寄せてきた。
Lもゆっくりと目を閉じた。個人のテリトリーを侵食して近付いてくる。以前は厭わしく思ったことが、今は忌まわしいほどに好ましい。
生体の発する熱の気配が頬をかすめたとき、柔らかいくちびるが、触れた。月のくちびるからは紅茶の匂いがした。微かな風に揺れるだけで甘い香りを撒き散らす、花の盛りの金木犀のように、触れ合ったくちびるをすこしだけ動かした月は、紅茶の吐息をこぼして離れていった。
遠ざかる肌の気配に目をひらく。暗黒の世界に色がつく。明るい視界のなか、月は口の端を緩くつりあげていた。
「おまえが選んでいいよ。L。僕は始めから、そのつもりなんだ」
「……」
「任せるよ」
「では」
「……」
「ワタリ。施術の用意を」
ドア元にひかえていた老翁が会釈をして退室する。
扉が閉まると同時に、月は微笑みを消した。
Lを見つめる。
Lも真っ向から視線をからみあわせ、目を逸らさずに月を見つめた。見つめたまま、ふたりは、同じタイミングで口許をゆるめて笑った。
別室に連れられ服を脱ぎながら、月は見慣れぬステンレス製の器具に目を走らせる。
底の浅いプラスチックトレイのなかにディスポーザルタイプの水色のマットが敷かれ、歯科医療で見かける穿孔具に似た機具、手術用のメスに似た道具などが銀色のシャープな光を放っている。部屋の中にうっすらと漂う消毒用エタノールのにおいを敏感に嗅ぎ取り、さすがの月も緊張した面持ちになった。
険しいまなざしで施術台と機具を順に眺めたあと、短く問う。
「手彫り?」
「はい。ただしアウトラインは機械彫りにします」
そっけなく答え、Lはキャスター付きの二段式カートの下部からクリアファイルをつまみあげた。薄いファイルから取り出した薄紙に『KIRA』の文字が描かれている。かつて第二のキラへ、テレビで呼びかける際に使用されたものと同じデザインだった。こぶしより少しおおきいぐらいのアルファベットは、各字の端が流線型に伸びている。
紙の両端を抓むようにして見せ付けてくるLに、月はおもわず顔を顰めた。
「そのデザインか」
「なにか問題が?」
「だって松田のだろ」
Lが呆れたように月を見た。
「あのですね、そういう意味の通じないわがままは止めてください」
「わかっている。でも」
「月くん。下も脱いでください」
「……」
「はやく」
不承不承にズボンを脱ぐ。
プラスチックの脱衣かごに衣服を落とすと、両脇に手すりのついた処置台へのぼれとLが顎先で示してきた。ビニルマットの冷たさを背中に感じながら、ゆっくりと仰向けに横たわる。白い身体をながめ、Lは片手に紙をつまんだまま、もう一方の手をこぶしに固めて下腹部の茂みの右横、腰骨のすこし上辺りに置いた。
「このあたりにしましょう。右上がりに少し傾斜させます」
「どれくらい時間がかかるんだ?」
「筋彫りに一時間。今回は朱一色でツブシます、それに二時間。合計三時間を想定しています」
「ふうん。けっこう時間がかかるもんだね」
「私が彫りますからね」
「……」
月は黙ってLを見た。
(私が彫りますからね)
その意味をどう捉えればいいだろう。
素人である私が、初心者である私が、生まれて初めて人の肌に墨を入れますからね。
もしかしたらと予想していた回答ではあったが、さすがに月は表情をこわばらせた。思考を読み取った竜崎が「大丈夫です。信頼してください。勉強はしました」と呟く。日本では公的な免許の制度もなく、刺青師として開業できることを考えれば、独学であろうともLに任せて問題がないといえば問題はないし、任せるより他に術はなかった。
「デザインを皮膚にうつします」
消毒用エタノールの臭いが鼻をつく。
球状の脱脂綿をつまみあげて消毒液で湿らせると、擦りこむように下腹部全体を拭う。蒸発と同時に体温が奪われていくひんやりとした感覚に、月の背筋に冷たいものが走った。
「ご存知のように刺青は、針で皮膚を刺し、色素を皮下の定着させるものです」
Lは淡々としゃべりながら、薄紙に描かれた下絵を丁寧に、皮膚に転写していく。いつもは人差し指と親指だけでつまみあげるようにペンを扱う。そうして繊細な曲線の多いデザインを正確に描きうつしていく。皮膚に触れるペン先がくすぐったかった。白くほそい指先の動きに従い、傷ひとつない美しい皮膚に朱色のKIRAの文字が描かれていく。
「刺青の原理を簡単に言えば、傷口を作り、色を沁み込ませることです。したがって施術には、それなりの痛みが伴います」
「知ってるよ、それくらい」
月が答える。
では、とLが言った。
「これはご存知ですか?」
「ん?」
「刺青を彫るときの痛みは、肉体の部位によってことなります。基本的に、肩や腕の外側はあまり痛くないそうです。しかし背中、臀部、脊椎の近くはかなり痛い。そして今から施術をしようとしている、わき腹近くはどうなのかと言うと」
そこでわざとLは一拍分の呼吸を置いた。
ちらりと月を見る。
「…なんだよ」
眉をひそめた。
Lは黒目を瞬かせた。
「笑ってしまうほど痛い」
「……」
「だそうですよ。月くん」
脅かすような口ぶりで、そう言ったLの声は、わずかに笑っているように聞こえた。
「おまえ、いい性格をしているよ」
月は、胸部を膨らませて深呼吸をし、吐く息をうんざりとした倦怠のため息にした。
横目に月を見て、Lは本当に笑った。
ペン先がさらりと皮膚を撫で上げる。デザインの転写は終わる。伏せていた顔をあげて、横たわる月をいつもの無表情で見下ろしたLは、プラスチックトレイの端に置かれていた薄いゴム手袋をつまみあげた。細い指先をゴム手袋の中に入れながら、まるで散歩にでも出かけるような気軽さで告げる。
「それでは三時間ほど我慢してください」
「……」
「まさか気を失うことはないと思いますが」
それは本当に最悪なスタート合図だった。
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