さけ


 まったくおかしなことばかりだ。通常の竜崎からすれば、いさかか常軌を逸している。 内心、首をかしげつつ、僕はあきれぎみに、ぐいのみの底に記憶の影を映し出した。
 さきほどの僕の科白は、あながちただの諧謔であるわけでもない。
 死刑囚を利用したキラ潜伏地域特定の手法。FBIによる尾行と身辺調査。盗聴・盗撮は、刑法に抵触する。 僕をキラと特定するための奇計、それら身に起こった異状を数え上げればきりがない。 水鏡のなかの自分を通じ、思い出すだけでぞくりと肌が粟立つのは、 背水の陣で味わう刹那的緊張。
 興奮だ。
 Lとの駆け引きは、どのタイミングで思い出しても僕を興奮させる。 いつまでも衝撃の尾を曳いて疼くように体の奥底に居座りつづける。頭の芯は冷たく冴え渡るのに、 滾るような血の昂ぶりを抑えきれない。
 それを思い出すことは余りいいことではない。 身体が不自然に緊張して、動作に滲んでしまうからだ。しかし普段、徹底的に抑圧している枷はアルコールに弱い。 思考の傾斜をとめることができない。そして緊張はどこか性的な興奮に近しいもので、そう思ってしまった僕はおもわず唇をゆがめた。
「………」
「なあに、笑ってるんですか?」
 見透かしたように、すかさず竜崎が聞いてくる。僕は伏せた顔をゆっくりとあげ、笑みを深くした。
「…この酒が美味しくてね」
「ああ…」
 竜崎がつまらなさそうに首を振る。
「夜神君ー、まだお酒が足りませんか?」
「もう十分だよ」
「でしたら酔いも回ってきたところ、そろそろ白状していただきましょう」
「……」
「……」
 黒い瞳を正面から見つめる。
「…今度は、何?」
 大仰に胸のまえで腕を組み、冷やかに聞き返せば、 竜崎は戯れに酒器をカツンと指先のつめではじいて、なにかを放り出したような手付きのまま、指先をじぶんのほうに向けた。
「聞いています。月くんは、それほど酒につよい性質じゃないそうですね」
「はは、誰の証言で?」
「誰だっていいじゃないですか」
「そりゃ」
「見てたでしょう?」
 遮るように科白をつづけた竜崎が、酒に濡れた赤いくちびるに人さし指を押し当てる。
 こちらを確りと見つめ続ける黒い目が、僕を捕らえる。
「だって自白してるんです、さっきからその目が── 嗚呼ほらその目だ。いい加減に素直になって下さい」
「竜崎、ふざけるのも」
「月、くん」
 故意に、名を呼ばれた。
 そう云えばいつの間にか呼び方が変わっていた。そんなことにも気付かなかった。そして思い出せない。
 竜崎がうわめ遣いにこちらを見る。
 目が合った。
「ね?」
 と、竜崎の指先が、赤いくちびるを離れてしろい胸元の肌にふわりと落ちた。
 浴衣の衿元をわずかにななめに沈ませる。
 ね?
 嗤った声は、直接脳にとどいた気がした。
 そしてその白い胸元が目に焼きつき。
 ── 僕は、とつぜん理解した。
(……そう、いう、…ことか)
 目的は、そうだった。白磁のようにまっしろな肌、華奢な体躯を際立たせる衣服のまえに。 つまり呼び出されたのは酒を愉しむ目的ですらなかったわけだ。まったくもってあきれた話だ、 あんまりにもあんまりな話だと、しかし悟った途端に閉ざされた和室の狭さが気になって現実感を喪失した。 急速に鼓動が高鳴りはじめる。胃の辺りから炎がゆらめき、またたく間に血潮に乗って肌が火照る。
 くらくらと酩酊時の目眩を感じた。
── なにを馬鹿な。)
 急に、なんで酔いはじめているんだ。
 いったい何に。
 考えれば、余計に拍動が速くなる。
「…見ていたのは、竜崎の浴衣姿がめずらしかったからだよ」
 声を低く押さえつけ、柔らかく微笑しようとして失敗する。
「ええ、前々から着てみたかったんですよね、浴衣」
「似合っているじゃないか」
「どうも」
「……」
「この酒、やっぱり美味しいですよねぇ」
 と、独りごちるように会話を放り出し、それっきり。竜崎は、黙ったまま、ぐいのみの底に残った神の水を一気にあおる。 喉に沁みる辛口の日本酒の熱をふうっと吐き出し、わずかに宙を仰いだまま、猫背の浴衣が気持ちよさげに目を閉じる。
 白い喉仏が無防備にさらされる。
 僕が、意識を奪われ捕らわれること。こいつは最初からわかっていた。 わかっていて僕を誑惑した。
 ── 最悪だ。



 夕刻の空の変化は早い。外は闇。青紫色の菖蒲も、もう竹垣の陰に埋没して見えない。
「なんだってこんなに酔いすぎなんだ」
「月くんが?」
「…竜、崎、が、」
「さすがに飲みすぎましたか。でもまだまだいけますよ。私はここからが長いんです。 もちろん今夜は酔いつぶれるまで、月君を帰すつもりもありません」
「……最悪だよおまえは」
 延々と僕が根負けするまで酒浸しにするつもりなのか。 くらりくらりと頭が揺れる。酩酊と同じスピードで急速に精神の抵抗力が弱っていく。 酒に酔えば、あたまがうまく回らなくなる。なのに僕はぐいのみを掴んだ手を持ち上げてしまう。口に酒を運んでしまう。 酔うと分かっていながら、酔えば抵抗ができなくなると分かっていながらだ。
 この矛盾を指摘する者はいない。つまり二人ともに好都合であるからだ。
 ふたりの酔狂な痴態には。
「竜崎、つまり──
 斜に構えた視線を向けても、
「つまりおまえはどうしたいんだ?」
「さあ、どーしましょーねえ?」
 気安い節を付けて唄を掛け合うように応じるだけ。 幼児のような舌足らずなこたえ方に、軽蔑をつくろって古木寒巌の様に振る舞いもしたが、すぐに偽装は露呈する。 ふっと息が漏れるように一度吹き出せしてしまえば、もうどうしようもなく止めようもなく口許が笑いの形に歪んだ。
 酒を、
 と短く要求して腕を伸ばせば、竜崎は薄く笑って従順にこたえる。
 カチンと酒器が鳴る。揺れる酒の水面を見つめて延長上にある細い腕、それから竜崎の顔を見据えた。
「…おまえは、時々どうしようもないな」
「はあ…。それで?」
 全部おまえのせいだ。
 全部おまえと酒と和服のせいにすればいいんだ。
 目を逸らさず、一息に酒を呷る。
 喉を潤し、つい今し方そうして見せ付けられたように舌先で唇をなめてみた。
「ん。だから──
「はい」
「…こっちに、来いよ。竜崎」 
 竜崎が心底可笑しそうな顔でゆっくりと肯く。



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