さけ


 黒味がかった茶地に白いぼかし。酒器は一目して値の張るものだと知れるが、詳しいことはわからない。 僕はただ漠然と、この旅館も一拍幾らするのだろうかなどと考えながら、白い指先を眺めていた。
 少しでも意識を遠ざけたかった。
 目の前のおかしな手付きの男の── ……。
 なのに意識は、磁石のまえの鉄屑のように吸い寄せられ、逃れるには目の前の酒に酔うしか術はないのだろうかと疎ましいような気分で考える。
「これ、いいお酒なんですよ」
 竜崎がひとりごちる。ふうんと短く相槌を打つ。
 注がれた酒のほどよいところで謝意を込めて微笑して、揺れる水面に視線をむけながら酒器を手元に置いた。 割り箸を裂いてサヨリの薄造りを口に運び、酒といっしょに流し込む。
 とたんにぽっと火が点いたように胃のあたりが熱くなった。 スポンジが水を吸い込むように瞬く間に血に溶け込んだアルコールの甘い炎が、じんわりと全身を巡り、身体の奥底を熱くさせる。 ふうっと吐息をこぼすと、自然と肩の力が抜けた。
「ね、美味しいでしょう?」
「…まあ…嫌いじゃないよ」
「つれないですねえ。…ささ、どうぞ」
「…ん」
 すさかず次を勧められ、わずかに躊躇う。
 僕はそれほど酒につよい体質ではない。大学のコンパでもなんでも、 普段はあまり積極的に呑むことはしない。しかし矢張りと云ってはなさけない話だが、竜崎の酒はとても美味く、 誘惑は非常に抗い難かった。 深酔いするまえに切り上げなくてはと思いつつも、促されるままに残りの雫を咽喉に流して、二杯目を受けてしまう。
「………」
「………」
 捜査時の饒舌はどこへやら。
 竜崎は、ことばも少なく静かだった。
 目的を見失いそうなほど、あいまいで奇妙に和やかな雰囲気。
 静穏の座敷で、浴衣の衣擦れだけが微かに響く。
 僕は、捜査の進展についてどう問い質そうかと考えながら、酒が注がれる様子をながめていた。
 そこでふいにカチンと微かな音がして我に返った。
 つづけて数度カチカチと酒器同士がぶつかる。眉を顰めた。 つまりは、もともと不器用そうな竜崎の指先が、なにやら今日はますますと覚束ないのだ。
「竜崎…まさか酔ってるんじゃないだろうな」
「はあ…」
「僕が来るまでに一体、何本を空にした?」
 胡乱に問われて徳利を手元に戻し、視線をあさっての方向に飛ばしてひいふうみいと指折りをやっていたが、 途中で数えることが億劫になったらしい。「そこに置いてある分だけ」と顎先だけで返されて、 不愉快をおぼえつつも座卓の脇を覗き込むと、恐ろしいことにそこに並んだ空の徳利は、両手の指の数を越えていた。
「…よくここまで呑んだな」
 あきれたよ。
 呟くと、竜崎はわずかに口許をゆるめた。
「今日の私は、酔うために呑んでいますから」
「…え、冗談だろ?」
「いいえ。そういう気分なんです。私だってたまにはそういう気分になることもあります。 それに今日は…まあ特別に見逃してあげますよ」
「……見逃す?」
 思わず鸚鵡返しに言い、視線をあげた僕の目と、大きな黒目が真正面でぶつかる。
 鋭い洞察力を備えた黒目にするするすると瞼の幕が下り、あたかも縁側の眠たげな猫の眼のように細くちいさくなる。
「はい、見逃してあげます」
「何のことだ?」
 はは、と口許を笑みの形にゆるめる。
 反面でひそりと背筋を緊張させた。抜け目なく狡猾にキラを追走するL。 やはり気を抜く事はおのれの首を締めることになりかねない…と気持ちを引き締めなおしたところで、しかし竜崎は飄々と。
「そうですね。例えば夜神くんが『未成年』である事とか…」
「……」
「…見逃しましょうか」
 …なにそれ。
「今更、それを言うか?」
 面食らっておもわず呆れた口調で告げてしまったのに、竜崎は意外なくらい素直にわらって先を続けた。
「よくよく忘れがちですが、月くんはまだ十代です」
「おまえが酒をすすめるからだ。なのにこんなことで僕を強請るつもり?」
「そんなあ。そんな卑怯なこと…しませんよ?」
 まったくもってどの面下げてのたまう科白だと詰りたくなる。 そして信じられなかった。卑怯だとか悪辣だとか感情以前に合理性で行動するはずの探偵Lが、 この深みのないたわいない安っぽい学生同士のような会話をつづける理由は、なんなのだ。
 胡乱なまなざしで睨みつける。竜崎がうわめ遣いにニィと笑う。そしていきなりぺろりと舌なめずりをした。くちびるが酒に濡れてぬるりと艶めいて、もはや調子が狂うどころの騒ぎではない。
── まさか)
 本当に、酔っているのか?
(あの…竜崎が?)
 この男はLなのに。
「おまえは、これまでも手段を選ばずあらゆる武器を行使してきた男だからな。明日になればコロっとわすれたフリをして揚げ足取りでもしかねないな」
 なので試しに意地悪く揶揄したら、
「………」
 今度は知らん顔をして返事もせず、ただ酒を口に運ぶばかりなのだ。



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