【酒】
捜査協力を請われて告げられたのは、都内といえど郊外にあたる某市の老舗旅館名だった。
至急と出向き、旅館の別邸に案内され、奥の間の襖をひらいて閾の前に立ち尽くした僕は、
その座敷のありさまを見て思わず脱力しそうになった。
「……騙したな」
「はい」
と、悪びれもせず素っ気なく答えた猫背の探偵は、視線をこちらに寄越そうともしない。彼の視線は、
右手にある、縁側のガラス戸越しに、群生した菖蒲の青紫色にむけられたままだ。
平屋建ての旅館の前庭は、建仁寺垣で囲われた小さな日本庭園。
右奥手に石灯籠が飾られて、その手前に涼しげな水音をひびかせ流れるせせらぎがある。せせらぎはすぐに池へと注がれ、
濃い焦茶色の水藻に覆われた池の中に、数匹の鯉が泳ぐ。菖蒲の一群は、池に迫り出した石段の左手を飾っている。
五月晴れの強すぎた陽射しはすでに傾き、西の空もなにもかも、いまは淡いオレンジ色に染めている。
そして視線を室内に返せば、
雲丹と栗白の二種盛り小鉢に地蛤のお吸い物。
サヨリの薄造りに、鯛と鮑の塩釜焼、タラバ蟹包み揚げ、里芋茶巾、小茶碗蒸し。
目前の漆塗りの高級座卓には、豪華な会席料理が並べられて── …。
(第2のキラから反応がありました)
(至急、来てください)
(ホテルを変えました住所はメールで送ります)
と、こいつは僕に連絡をしてきたのに。肝心の捜査資料もなければ、父たち捜査員もどこにもいない。
「………」
竜崎は、掛け軸のある床の間を背にして黒乾漆の座椅子に、例の座り方をしている。
立てた膝をきちんと揃えて両手をそのうえに乗せている。
それはいつもの姿であるが、一点、我が目を疑うことがある。
竜崎は、シャツとデニムは脱ぎ捨てて── なぜか格子縞の旅館浴衣などを着ているのだ。
(捜査をやる気があるのか、その格好。)
いや、ないのだろう。
断じてやる気はないのだろう。
「竜崎っ、きちんと説明しろ」
僕は自然と詰問口調になる。しかし竜崎はあいかわらずの飄々とした態度だ。
「ですから見ての通りですってば夜神君」
「竜ー崎!」
「…なんだか急に、お酒が呑みたくなりました。折角なので夜神君をお誘いしてみました。それじゃあ…駄目ですか?」
何が折角だ。
黒髪に縁取られた白い横顔を睨みつけ、僕は大袈裟な身振りで腕組みをした。
「それだけか?」
「はい、それだけです」
「本当に、それだけか?」
「はい、本当に」
天井を仰ぐ。うんざりだった。だってそれはあんまりにも酷い話じゃないか?
五月の連休も最終日。
捜査本部が作成したビデオテープに第2のキラが応えてから、十日余りが過ぎていた。
しかし、その後、第2のキラからはパタリと連絡が途絶えたまま。
捜査はなにも進展していなかった。
その為、このところの僕の心中は焦燥ばかりだったのだ。
いかに竜崎に先んじて第2のキラと接触するかと苦慮し、
ジリジリと焦げつきそうになりながら、連休を過ごし終えようとしていたところだった。
そんな状況だったのだ。
だと云うのに。
勿論キラたる僕の心中を悟られるわけにはいかないけれど、あくまでキラ容疑者の立場から言わせてもらえば、
疑惑を晴らすべく捜査協力を惜しまぬつもりの僕をわざわざ呼びつけ、
それがただ酒飲みの付き合いだというのはあんまりにもあんまりな話じゃないだろうか。
人の気持ちに寄り添う術を
もう少し会得すべきじゃないかおまえはと、ひとこと文句も言いたくなるし、
嫌味に聞かせるための倦んだ溜め息を吐きもする。
しかし結局、そんなものは探偵に何らの痛痒を与えやしないのだ。
開け放たれた障子のむこうの情緒ある風情を眺め、
日本酒をなみなみと注いだ素焼きのぐいのみを、ほそい指先で悠然と口に運ぶ。
こちらを振り向こうともしない。ぬけぬけとした振る舞いに絶句してしまった僕と竜崎とのあいだには、十数秒以上の沈黙が流れて、
それは気まずいというよりも矢張りある種の駆け引きのように思えた── が、しかしそう思ってしまう反面で、
どこか、なにかの違和感もあるのだ。
「………」
竜崎が旅館浴衣を着ている。見慣れぬ格好をしている。シャツとデニムの印象が強すぎるせいだろうか。
視線が落ち着かない。
いつもと異なった雰囲気に意識を奪われる。どうにも思考が上滑りする。
おかしな事象だった。
竜崎とともにいると、常ならば監視者の冷徹な眼に縛られて非常に緊張を強いられる。
底知れない深遠から見つめられるような、居心地の悪さに似た息苦しさに囚われるものなのだ。
しかしまるで今日の竜崎は、
日本酒の風味にも似てすっきりと、そのくせどこか甘くまろやかな雰囲気を漂わせている── ような気がするのだ。
(…浴衣、か)
厚手ではない単衣の生地に、もともと華奢な竜崎の体躯がいっそう際立って細く見える。
視線は、自然と浴衣の衿元に吸い寄せられる。
黒髪が掛かる首筋から、わずかに覗いた胸元までは、白磁のようにまっしろな肌。
浴衣の色が、濃い茶鼠だからだろうか。日の光を極端に拒絶した肌の色が、今日はなぜかやけに新鮮に目に焼きつく。
その色は、ベッドの中で竜崎の肌に触れたときの、なめらかな感触すらもまざまざと思い出させ、
僕は苛立ち気味にこころのうちで吐き捨てる。
(── …クソ、こんな…)
まるで目の毒だ。
「………」
内心、舌打ち。
「── 夜神君」
と、ふいに呼ばれて鼓動が跳ねた。
咄嗟に反らしかけた視線はかろうじて押しとどめることができた。鼓動を静めるための間をあけて、
ゆっくりと視線を竜崎の顔に向ける。
「ん?」
「…夜神君も、いろいろと気懸かりなことがあって大変でしょうね」
竜崎はどことなく可笑しそうな色を、黒い目に浮かべていた。
思わずムっとした。
(…どういう意味だ。)
「しかし現在は第2のキラの反応待ちです。気を張り詰めたところで、どうにもなりません。
凡庸な一般論を言わせていただければ、誰しも『たまには息抜きが必要だ』ですよ」
(なにが『凡庸な一般論』だ。)
非凡な発想だらけの特異な探偵が。
そういった悪態を口に出さないだけでも、まったくもって一苦労だった。
「ご高説ありがとう」
苛立ちを抑えつつ謝意を述べ、すぐさま「だけど」と切り返す。
「おまえのように世界を相手に活躍している人間とは比べ物にならないかもしれないけれどね、僕もそれなりに忙しいんだ。
僕は僕なりにキラ事件を憂いているし、解決のため、おまえのために尽力するつもりなんだ。それを分かった上での冗談なんだろうな?」
「そうして平素は協力的で生真面目な大学生の振りをして、裏では寝る時間も惜しんでキラ殺人ですか、夜神くん」
これにはさすがに眦を決さずにはいられない。
「L、言葉が過ぎる。謝れよ」
故意にLと呼んだのだが、おどろくことに竜崎は僕を諌めもしなかった。
「失礼。では仲直りしましょう」
と、唐突に、徳利型の酒器をつまむような手つきで持ちあげたので、僕は拍子抜けして肩を落とした。
なにかどこか奇妙だ。
今日の竜崎はどこか奇妙に軽薄だ。
僕は、沈黙して目の前の状況をもういちど整理した。
座卓には一人分の料理が並んでいる。竜崎側はありとあらゆる和菓子の類が並べ立てられ途中まで食べ散らかされているが、
僕の側にあたるまともな料理はまだ手付かずの状態だった。僕のために用意された。酒宴目的とは事実のようであり、
なにはともあれ僕はわざわざここまで出向いてきてしまったのだ。
それに、進展はないと口先で嘯き、重要な情報を隠している可能性があるのが竜崎だ。
どこまでが冗談でどこまでが駆け引きなのか判別はできないが、たとえ息抜きであろうと、キラ捜査の延長なのだろう。
そんなふうに内心で肯き、
僕は敷居を跨ぎながら薄手のジャケットを脱いだ。後ろ手に襖を閉める。竜崎とは向かい合う位置の座椅子を手前に引き、
胡坐をかいて座る。
「── ……」
ふいに竜崎のくちびるから含み笑いまじりの呟きが、こぼれた。
「え?」
「…いえ」
聞き取れずに首を傾けても、竜崎は澄まし顔をするばかり。
「それより、どうぞ」
と、腰を浮かして前掛かりの体勢になり、細く骨張った手が酒をすすめてきた。わけがわからず首をかしげたまま、
僕はおもわず目の前の空のぐいのみを持ちあげた。
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