喧嘩けんか


 夜神が去ってから数分経ったあとに、水飛沫をあげて立ちあがった。
 浴槽を跨ぎ、ポリエチレン製の洗い場用マットレスの上に立ち、シャワーを手にする。少し肌に冷たいくらいの 温度に調節をして水栓をひねる。汚された体内は湯船に身を沈めるまえにしつこく洗浄したが、まだ違和感があったし、なによりも頭を冷やす必要もあると思われたのだ。
 冷水を浴びて水栓を閉める。
 バスラックに掛けておいたタオルを手にして、髪から滴る水滴を手早く拭いながら戸をスライドさせる。
(服を…)
 夜神が置いていったはずの着替えを探して、全自動洗濯機のうえに目を移した。
『ここに置くから』
 硝子ごしの人影は、紙袋と着替え一式をたしかに置いたはずだった。
 しかし聞き間違えたのだろうか?
 服も薬もどこにもなかった。置かれたはずの場所にもどこにもなく、怪訝に思いつつ脱衣所を見回した私は、さらに気付き、たまらず舌打ちをした。
 籠に入れておいたはずのデニムまでも、いつの間にか消えてなくなっていたのだ。
(…どういうことだ?)
 困惑よりも、苛立ちが先に立った。
 こんな子供じみたやり方で、私の気を荒立たせていったい何を探ろうというのだ。
 夜神らしからぬやり方だと思ったが、夜神以外に犯人はいない。
 いずれにせよ彼の厚意に甘えるべきではなく、家にまで付いて行くなど論外だったのだと後悔したが、しかし遅すぎだった。
「…なにを考えているんだっ」
 バスタオルで手荒に身体を擦り、水気を払い、ドアノブを回して廊下へ出る。
 シンと静まり返った家のどこかから軽快なリズムの音楽が聞こえた。 それは二階の夜神の部屋から漏れているようだった。なにを暢気に音楽など聴いていると思うと無性に腹が立った。私の冷静で計算高い部分は、この下らない挑発に乗ることなく、 夜神が気付くまえに家庭の固定電話をさがしてワタリを迎えに呼ぶよう促していたが、私はそんな自身を黙殺した。 危ういことはわかっていたが、結局私は私自身の幼稚な怒りに負けたのだ。
 裸体をさらしたまま、ひんやりと冷たい家宅の気配を縫い、階段をのぼる。
 部屋の前で一呼吸ついて、ドアをひらく。
 ポップミュージックがかなりの音量であふれ出して私は立ち尽くした。 夜神は、肘を曲げて頭を支えた格好でこちらに背を向けて、ベッドのうえに横臥していた。
 細い指先がぺらりと雑誌のページをめくる。
「夜神君」
 普通に話してもこの距離ならばとどくだろう。
 しかし夜神は私の呼びかけに対して聞こえない振りをした。予想したことだったが酷く気に障った。
「夜神月!」 
 音量に負けじと声を張りあげる。ようやく茶色の髪が揺れて、寝転んだ姿勢のまま私を振り返った。
「りゅ…どうしたんだ服も着ないで?」
 がばっと身を起こした夜神は、おそろしくわざとらしい表情で驚き、立ち尽くしている私の全身を上から下まで眺めた。 そして目のやり場に困ったようにきょろきょろと視線を左右させたあと、斜め横を向いた。
 含羞を滲ませたしぐさに私の苛立ちは頂点に達した。
「仕方ありません。服がどこにも置いてなかったので」
「え、さっき脱衣所に置いただろ?」
「とぼけるには無理がありませんか、夜神君」
「…なに?」
「さきほどは持ってくるふりをしただけでしょう?」
「………」
「ご家族が不在の状況で、夜神君以外の誰が持ち返ったんですか?」
 とたん弾かれたように私の目を見つめ、夜神は絶句した。
 本当に驚愕しているように見えた。
 素晴らしい名優だ。 茶色の瞳を瞬かせ、私から視線を逸らし、忌々しげに空間を睨む。
 おもわず釣られて目線の先を追ったが、なにがあるわけでもない。 ふたたび夜神を見据えると、気付いた彼は鋭い目付きをふと弛ませ、ふわりと秀麗な微笑を浮かべた。
「…ごめんね。ちょっとからかってみたかったんだ」
 拍子抜けするほどあっさりと謝罪し、すぐに服を出すよと言いつつ立ち上がる。
(…何なんだ一体)
 あまりにも手ごたえのなさ過ぎる態度にあらためて困惑する。
 何かが変だ。
 悪寒にも似た、不安定な震えが胸を占める。
 説明のつかないなにかが、この部屋に立ち入ることを押しとどめているような──、いやその真逆だ。しきりと誘い込む黒い手が喉元にまで接近しているような、そんな気がするのだ。
「ああそうだ、頭痛薬は机のうえだよ」
 左手の壁に埋め込まれたクローゼットの扉を開きつつ、振り返りもせず告げる。
 言われて、薬局の白い紙袋が机上のシラバスのまえに置かれているのを見止める。
 怒りに圧され、頭痛は遠ざかっていた。いまもちくちくと頭の奥に居座ったまま私を苛んでいるが、我慢できないほどではない。どうすべきかとわずかに躊躇し、私は部屋に足を踏み入れた。 複雑に入り組んだところから派生する不安を否定したかったのかもしれないが、その行動の理由はじぶんでも説明しがたいものだった。
 夜神の背を視界の隅に入れ、注視しつつ、紙袋のテープを剥がして口をあけた。
 袋の中身は、派手なレモンイエローの小箱だった。
 底を返すと、スマイリーマークが乾いた音を立ててころがり出てくる。
「…え」
 たまらず声が漏れた。
 自分の目を疑わずにはいられなかった。
 日本HIV基金の赤いリボンがプリントされた、レモンイエローの小箱。それはまぎれもなく避妊具── つまりコンドームだった。
 なんだってこんなものが入っている。
 と、親指と人差し指の二指でそれをつまみあげる。
 あまりに予想しない事態にあっけにとられ、思考が一時停止した。
 その一瞬が、命取りだった。
 夜神が私の背後に立ったことに気付くのが遅れた。 グイと手首を掴まれ、ハッと振り返る。ふりむいたとたんにおもわず仰け反ってしまうほどの至近距離に、彼は立ち、 薄茶の前髪の下から右目だけを細く眇め、私を見ていた。まるで憎々しげな目付きだった。
「竜崎」
 耳元で低く囁かれ、総毛立つよりも先に、突然ガクンと膝下が崩れた。 足を払われたのだ。胴部に腕が回り、同時につかまれた手首は大きく円を描いてうしろに捻り上げられた。 そうして背後から抱きつかれた体勢で、バランスを崩し倒れこむ視線の先に、ベッドの端が急速に近づいてくるのが見えた。 ぶつかる直前で反射的に目を閉じた。べッドに胸を打ちつけ、息が詰まったところに背後から体重を掛けられる。奇妙な方向にねじられた腕と肩に激痛が走った。
「…ッ」
 ベッドから半分ずり落ちたような位置だ。うしろから太腿のあいだに膝が滑り込み、ズボン越しのしなやかな脚の筋肉によって下肢を押さえつけられる。
 息を乱した低い声がすぐ耳の後ろでした。
「ちょっと油断し過ぎじゃないか?」
 ギクリと身が強ばった。
「Lともあろう男がこんなふうに簡単にうしろを取られるなんてね」
「………」
「どうしたのかな。手ごたえがなさ過ぎて拍子抜けするよ。退屈だな」
 歯軋りしたくなるほどの屈辱を身のうちに滾らせる。しかし冷たい怒りを皮膚に滲ませながら、私は無反応に徹した。 胴部と一緒に抱えられるように囚われた腕が、ゆっくりと後ろに持っていかれる。 強制的にうしろにまわされた両手首に、ほそい紐のようなものが巻きつき、ぎゅっと固めに縛られる。
「それとも何、こうやってわざと隙を作るのがおまえの手管なのか? こうして裸で人前に突っ立ったりして、 どうにでもしてくれって腹を見せて降参する犬みたいに?」
 悪意に満ちた戯言を身じろぎひとつせずに聞き流していると、信じられないことに、生温かい舌がぬるりとうなじを這った。 虚をつかれた身体は、反射的に大きくふるえた。嘲弄するような忍び笑いが耳元で零れ、ふとももの間に押し込まれた膝がぐいと私を押しあげた。
「……っ」
 ごわごわとした生地にむきだしの陰部を擦られ、たまらず息が引き攣れた。
 そのまま股間をゆるく捩子回すような動きで刺激され、なおも漏れそうになる息をくちびるの手前で押し止める。 しかしいくら平静を保とうとしても、混乱した身体は触れられ与えられるままに戦慄き、鼓動が乱れた。
「カンジルの?」
 ふざけるような言い方。くすくすと無邪気そうに声を立てて笑う。夜神は、シャワーに濡れた髪の生え際に、鼻先を押し込んでさもいとしげに擦った。
「ん、ちゃんとシャンプーつかったんだね。いい匂い」
 身体を密着させたまま、ひどく優しい柔和な声音で囁く。
「じゃあね。もっとしてあげるから、教えて?」
 細い指先がうっすらと汗をかきはじめた腰をなぞり、腹部とベッドのあいだにすべりこむ。 内股のきわどい部分を撫で上げられ、怒気を奥歯で噛み殺した。 その先の行為は予想通りだったが、私には夜神がそんなことをするという事実が信じられなかった。
「ほら、気持ちいいんでしょ?」
 萎縮した性器を冷えた指先がつつみこみ、身体の下で動かしにくそうに、しかし明確な意図をもって動く。 張り出したところに手を固定して、親指と人差し指のはらで交互にいじられると、 耐え難い屈辱感に、青い焔が火の粉をあげて身のうちを焼き尽くすような震えが奔った。
「正直に答えてよ」
 けれどまるで場違いなほど明るい声音で問いかける。
 ゆるゆると性器をこすりながら。私の濡れたうなじにキスをしながら。
「流河、ねえ?」
 愉しげに夜神は訊いた。 すっかりと体重をあずけ、性器を弄っていないもう片方の手で、まとわりついてくる乱れた茶色の髪を掻きあげる。
「教えて?」
 身のうちに迫る危機に、鼓動が速まるにつれ、ジクジクと痺れるような痛みが接近するのを感じた。
 この痛みは、もううんざりだ。夜神、何故おまえまでも──
「流河、誰にレイプされたの?」



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