喧嘩けんか


 音を立てて生木が裂けるような激痛──頭が割れそうに痛んだ。
「なにを、馬鹿な…」
 途端に夜神は鼻で笑った。
「やっぱり」
 干上がった喉から搾り出す否定に、逆に確信を深めた。
 陰茎から手を離し、その手を私の顎にかけて強引にふりむかせる。
 掴まれた指の強さに痛みを感じてかすかに呻くが、 細めた視線のさき、焦げ茶色の双眸のなかに大学で出会ったとおなじ剣呑とした光をみつけて、喉を詰まらせた。
「どうして気付かない?」
 歪んだ口許を隠そうともせず、憎々しげに吐き捨てる。
 夜神を知ってから数ヶ月。
 それが例え上辺だけの虚飾であろうとも、彼は穏やかな微笑みをたやさない、人当たりの良い人間だと認識してきた。 その秀麗な容貌が、これほど醜く歪むところなど想像すらできなかった。まるで別人のような様相だ。
 これがキラの──処刑台に送るべき殺人鬼の──素顔。
「誤魔化せるとでも思ったのか?」
 目を見開き、硬くこわばったままの表情で凝視する。
 夜神が苛立ったように目を眇める。
「あんなにハッキリと、おまえからは男の匂いがしてたのに」
 カミナリに打たれたように背骨の芯が砕けた気がした。
 懸念は正しく現実となり私を失墜させた。やはり精臭は隠せなかった。喉から粘土を押し込められたように胸が苦しく、 顎にかけられていた指が離れると、私の頭は重力に従いただぽとりとシーツのうえに落ちた。
 夜神が薄手のシャツに覆われた細い腰を曲げ、斜めうしろの机上に手を伸ばす。 獲物を縫いとめた肉食獣の落ち着きはらった態度のまま、避妊具の小箱を手にすると開封口の切り取り線を指で押しあけ、 連なったものをそのままにつまみ、目のまえでちらつかせる。
「使わなかったんだろ、これ」
 素早く目を逸らしたが、閉じる以外に完全に遮断することは出来ない。
「ちゃんと見ろ。──…教えてよ。そいつらの名前」
(よせ)
「流河、泣き寝入りするつもり? そんなの僕が許さないよ」
 ずきずきとこめかみが痛んだ。
 ほとんど声をひそめて優しく語りかける。恋人を嗜めるような甘い囁きは、すがりつかせるための姦計だ。
 目を閉じた。
「流河?」
 死んだようにかすかな反応も示さない私に、夜神が心配を装った声をかける。
「大丈夫、流河?」
(…何も言うな)
 もうこれ以上。
 もうこれ以上私を混乱させるな。
 只管にそう願うが、しかし望みはけして叶わないとも知っている。
「流河、答えろ!」
「うっ…く」
 ぐいっと髪をつかまれ後ろに引き上げられ、苦鳴が漏れた。背筋を強引に逸らされたせいで肺が圧迫されて息苦しく、はっはっと搾り出すように呼吸が乱れる。 しかし引き抜かれんばかりの凶悪さはなおも止まず、髪を掴んだ指が容易に外される気のないことを物語っていた。 薄く目を開き、睨みつけると、困り果てたような顔つきをして夜神がわらった。
「僕に喧嘩を売ってどうするの?」
「………」
「…憎くないのか、その男たちが」
 細めた目の奥底から睨みつけ、ただ逸らさなかった。
「…そう」
 気の抜けたように息を吐き、夜神は遠くを見る目つきで空間を仰いだ。一呼吸ほどの間をおいて、ふたたび私を見下ろす。 薄い茶色の瞳が酷薄な色を滲ませ凝視してくる。鈍く瞬きをすれば、その完璧なほどにととのった美しい容貌との距離が縮まっていた。 ゆっくりと迫ってくる。
 恐れを感じて目を閉じたとき、濡れた感触が首筋に押しつけられた。
 縦に走る細い筋肉のすじをなぞるように舌先が撫であげ、固い前歯が柔い肉に刺さる。 鬱血するほど強く噛んだところ、柔らかい舌が丹念に舐め、 その舌はゆっくりと首筋から頬のほうにあがってくると、食いしばった私のくちびるをとらえた。
「…っ…ん」
 顎をとられて有無をいわさずくちびるを覆われる。頑なに閉じようとする隙間を舌がこじあけ、歯列をぐるりと舐めあげられる。 ぬるい唾液が口のなかに入る。顔を背けて抗おうとしても、この圧倒的に不利な状況では無力に等しい。
 無理やりにでも官能を引き摺り出そうとするように、しつこく歯茎をなぞられる。 巧妙な手管はともすれば不審なほどに躍起だったが、その理由に至る余裕もなく熱い舌先に煽られ、たまらず息が跳ねた。
 弛んだ隙を見逃さず、すかさず唾液で滑る舌がぬるりと奥まで入り込んできて、私の舌を絡め取る。
 反射的に上下の歯を噛み合わせた。
「……っつ」
 唇が離れ、頭部をベッドに叩きつけられる。 スプリングが吸収し、たいした衝撃はなかったものの、そのまま強くシーツに顔を押さえつけられて顔面が拉げる痛みに呻く。
「…やってくれるよ」
 夜神が、溜め息まじりに、うとましげな声で呟く。
 と、ふいに背後に伸し掛かっていた重みが失せたと思ったら、髪を引き摺られて身体を表に返された。
 室内の照明が目に明るく、眼球を強く圧迫されたために焦点がなかなか結ばれず、 すぐそこに立つ夜神は、滲んだ涙のせいで細かな彩光を纏って見えた。その残像のような視界のなか、右手が高く掲げられた。
 殴られる──と予期して、反射的に目を瞑った。
 直後に、風船が破裂するような音が耳元で鳴り、ちりりと皮膚が引き攣るような痛みを感じた。 偶然にも、振り下ろされた夜神の手のつめが、鬱血した箇所をえぐったのだ。
 全身の血が、一気に足から地表へとしみ出したような、寒気が背を走った。
 加えられた力の程度からも手加減されたことは明白だったし、こめかみが出血したところでどうということはない。 しかしジャケットを優しく肩に掛けたのと同じ手が、私の頬を打ったという事実が、ひどく私を痛めつけた。衝動的にわななく唇を噛み、 すぐさま攻撃に転じようと片足を屈めたが、ベッドから半ば外れた不安定な体勢ではそれもままならず、 突きだした足首は容易くつかまれ、無様に割り広げられたすえに肩に担がれる。
 ぐいっと体重を掛けて密着する細い体躯と、自重につぶされ、 背中でまとめられた両手首が痛んだ。
「…流河」
「は、なせっ」
 尚も身を捩り逃げ出そうと暴れる私を押さえつける。抱えられた足は、跳ね上げるように何度も空中を蹴る。必死に押さえつけて息を切らした夜神が、切迫した声で口早に囁いた。
「これだけ強いのに、どうして油断した」
──…っ」
「僕以外の人間なんかに…どうして油断したんだっ」
 正体のわからない、激しい感情があふれそうになり、全身が痙攣した。 自分自身の感情をコントロールしようと必死に顔を背け、奥歯に力を込めると、嘔吐を催しかねないほどに頭の芯が激しく痛んだ。 力を弛めたら狂ったように叫び出してしまいそうだった。
 頬に手が添えられて、逃れられない距離から瞳を覗き込まれる。
(……っ)
 おもわず双眸を見開いた。
 見上げた夜神の目は、心なしか濡れているように見えた。
「…次は本気で殴る」
 そう低く囁き、水分をたっぷり含んだ果実のように瑞々しい唇で、私のくちびるを覆った。
 差し込まれた舌に、奥で縮こまっていた舌を絡めとられる。
 抵抗はしなかったが応じもしないでそれを受け、息を漏らし、目を閉じた。
 視力を閉ざした真っ暗闇では感覚ばかりが鋭敏化する。濃いくちづけだけでなく、あばらの浮いた貧弱な胸を撫であげられ、 全身がこまかくふるえる。ただそれは表層的なことで、私を混乱させ、脈の速度を早めていたのは、 いくつかの符号と喉元まで切迫した熱い感情の塊だった。



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