喧嘩けんか


 大学の正門前でタクシーを拾ってから数十分。庭付きの一戸建ばかりが並んでいる、上品な住宅街の一方通行路でタクシーは停止した。 さっさと自らの財布で支払いを済ませた夜神につづき、タクシーを降りる。
「多分、流河の住まいよりもずっと狭いと思うけど…」
 儀礼的な口上を嫌味もなく、さらりと言い流しながら、夜神は黒い玄関のドアハンドルを回す。
 しかしガチャと鈍い金属音がして、ハンドルは開閉の位置まで回りきらなかった。
「…鍵が掛かっている」
「ご家族の方は不在のようですね」
「買い物かもね。ますますおもてなしができなさそうだ」
「お風呂を借りることができれば十分です」
 と、私がこたえると、夜神は微笑をうかべながらキーケースを取り出し、鍵をシリンダーに差し込んだ。
 ドアは外側にひらかれた。玄関からすぐのところに階段がある。
 たしか二階が、夜神月と妹の部屋だったと記憶していた。もし可能であれば、まっすぐにそこに向かいたかったが、 当然のことながら、夜神はまず私を風呂場へ案内した。
 水場特有の湿った空気がこもる脱衣所で、夜神は洗面台の下の引き出しから バスタオルを出して、籐の手編み籠とともに手渡した。薄い水色の花柄のタオルからは爽やかな柔軟剤の匂いがした。 監視カメラごしの映像では嗅ぎ取れない、これが夜神家の家庭の匂いなのだ。
「汚れ物はそっちのランドリーボックスに入れて。洗っておく。 着替えは、僕とサイズもあまり変わらないようだし、僕の服でいいよね。新しい下着がないからコンビニまで行って来るけど、トランクスでいい? あと他に欲しい物ある?」
「頭痛薬を」
「あたま痛いのか?」
「少し」
「わかった」
「それから『タケノコの山』期間限定サクラ餅味とチョコレートエクレアを。パンツはいいです、そこまでお世話をかけるのは申し訳ない。夜神君のお古でいいですよ」
「何言ってんだよ。僕が嫌だよ、パンツのつかいまわしなんて汚いだろ」
「冗談です。本気にしましたか」
「…もしかしてサクラ餅味っていうのも?」
「いえ、そちらはお願いします」
「………」
「お願いします」
 この青年はかなり典型的な長男気質なのだろう。 甲斐甲斐しく世話を焼き、自動給湯システムを弄って浴槽の湯張りをセットしたのち、 風邪を引くから僕が帰ってくる前にあがるんじゃない、裸でそのへんをうろうろするな、家人がもし僕の留守中に帰ってきても流河のことについてはメモをしておくから心配しなくていいと しつこいくらいに繰り返して出ていった。忙しなく二階と一階を行き来する足音がして、脱衣所のドアのむこうで、玄関の扉が閉じられる、ばたんという音を聞いた。
(やれやれ…)
 ひとり残された私は、息をついて肩の力を抜いた。
 夜神が去ったあとの脱衣所は、室温がすこし下がったような気がした。ぶるりと身を震わせる。意識外に遠ざかっていた頭痛が再来する。
 こめかみを指で押さえ、頭を振った。
(1、2、3、……)
 出て行った直後に引き返してくるような真似はしないだろうが、念のために、六十まで数え始めた。
 そして数え終わったのちに、籠とタオルを洗濯機の蓋のうえに置き、浴室をあとにした。
 まさか本当に風呂を借りるためだけに来たわけではない。
 ましてや夜神も、私が大人しくしているなどとは爪の先ほども考えていまい。
 十八歳の聡明な青年の部屋に、キラたる証拠が残されているとは微塵にも期待していない。ほぼ99%徒労に終わるだろう。 しかし捜査など塵芥を拾っては捨てるという積み重ねのようなものだ。 膨大な労力を傾けた末に手がかりらしきものをピンセットで摘み上げる。 そこに直感と云う名の虫眼鏡を押し当てて、或いは犯人に墓穴を掘らせるための罠を仕掛けることで、捜査のショートカットを図る。 それがLの仕事だ。
 夜神が掛けてくれたジャケットは冷えた肌だけでなく、私の胸を温めてくれた。優しさは嬉しかった。
 しかし絆されることはない。
 頭痛がした。
 素足でぺたりぺたりと階段をのぼる。僅かな段差も億劫だった。気力と思考力が減退していることに舌打ちをし、夜神の部屋に至り、ドアノブに手をかけた。 そこで立ち止まった。ドアと壁の隙間に、あのときとおなじように紙片が挟まっていた。
 キラであってもなくても、若い心に巣食っている現実への猜疑は、いまだ解かれていないらしい。 他人が自室をこっそりと汚そうとする疑心。退屈を持て余した優秀な頭脳のささいな悪戯であればよいのだけれど、 彼はそんな幼稚なだけの子供でもないだろう。
「………」
 どちらにせよ、トリックを仕掛けることで、夜神月は、我々の監視に気付いた。
(恐らく気付いていたのだろう)
 挟まれた紙片によって盗聴器・ピンホールカメラを仕掛けたことがバレたわけではない。 少なくとも設置した際に、ワタリはこの紙片の意図に気付き、それを元に戻した。 それでも侵入がバレたのだとしたら、この紙切れは、本当のトリックから注目を逸らすためのカムフラージュである可能性が高い。
 ぐるりと階段、ドア付近を見回す。
 防犯用カメラを設置して監視しているのかと考えたが、すぐに打ち消した。 学生は拘束された生き物だ。そう四六時中、自室の入り口をカメラ越しに観察していられるわけがない。
 なにか他の詭計があるはずだ。
 しかしそれを発見し、立証したところで夜神がキラである確立が高まるわけではない。あの日、そうしていたように、 赤裸々な雑誌を隠していることを知られたくなかったという、青年の主張が邪魔となる。
 ひらりと紙片を床に落とし、ドアをひらいた。
 ドアを後ろ手に閉めて、ぐるりと潔癖な部屋を見渡す。
 内装はカメラ越しに見た当時とほぼ同じだ。変化があるとすれば机上の大学受験の参考書の類が、大学シラバスと教養課程の副読本に置き換わったことぐらい。
 本棚のまえで腰を折り、『世界の建築家』というタイトルの大型書籍を抜き出す。
 厚手のボール紙のブックケースのうちには、数ヶ月前とは違うグラビア雑誌が収められている。 そのうち一冊を抜き取ってどぎついカラーのページをパラパラとめくる。カラーインクの臭いが鼻につく。 けれど男性のセックスファンタジーにつきまとう性の匂いはどこにもない。
 夜神は潔癖そうな青年だ。自慰の残滓をページに付着させるようなことはしないだろう。しかしこの雑誌には使い込んだ形跡もない。 性欲の薄い若者はいくらでも存在する。彼もそのタイプだとすれば、妄想を掻き立たせるポルノグラフィに用はない。
 やはりポーズだったのだろうか?
 ベッドに寝転んで雑誌を眺めていたことは、観察者を意識した偽装だったのだろうか?
「……」
 机の上の置き時計を見る。 いつまでもひとつの思考の淵にとどまっていることはできない。
(この程度のことでは決め付けられない。)
 書籍を元に戻して立ち上がり、机の引き出しを上から順にあけていく。日記帳を見つけた。手にして始めの数ページをめくる。 特に気になる記載はない。元に戻して上から順に引き出しを確認した。私は立ち上がった。
 家人の留守の隙を縫い、簡単な家宅捜索とともに盗聴器・盗撮カメラを設置した。 そのときも不審は見つからなかったのだ。なにも得られなくとも失望はない。
 ぺたりぺたりと足音を立て、ドア元まで戻り、去り際に部屋を振り返った。室内をもう一度見回し、鼻から深く息を吸い込む。
 映像と音声では得られない情報。人の五感を刺激する。
 匂い。
 ── 死神はリンゴしか食べない。
 赤い果実の芳香を淡く期待したが、やはり収穫はゼロだった。




 ただいま、という声を、私は浴槽のなかで聞いた。
 お湯に芯まで温められて、心地よさにウトウトとしながら、おかえりなさいと胸のうちで呟いた。
 立てた膝を抱え、首をかたむけて浴槽の縁に頭を預けていた。
 殴打の傷跡は湯に触れるたびピリリと沁みるので、 さざ波を立たせないようにじっと身を固めているうちに、ついまどろんでしてしまったのだ。
「流河」
 脱衣所と浴室は、半透明のプラスチック板の戸で仕切られている。
 うつらうつらとしている私の姿も、脱衣所のドアを押し開き、こちらの様子を伺っている夜神の姿も 互いにおぼろげな輪郭でしか判じられない。
「溺れていない?」
「………」
「いるの?」
「…ええ、まあ」
「頭痛薬と着替え。ここに置くから」
「ありがとうございます」
 脱衣所のわきに備えられた全自動洗濯機のうえに、濃い色の布と白い塊が置かれる。 おそらく衣類と薬品の入った紙袋なのだろう。 それだけを置いてすぐに自室へ戻ればいいものを、夜神はランドリーボックスをのぞきこむため、ドアの隙間から半身を乗り出した。
「あれ? 服は…もう洗濯機のなかに入れたんだ?」
 浴槽の縁から額を上げ、ぬるま湯に浸していた意識を叩き起こす。冗談らしきことを口にする。
「私にだって羞恥心くらいありますから…」
 冗談は余り得意ではない。あまり得意ではないことだから、いっそ嘘くさく聞こえるように生真面目な口調で告げた。
「夜神君だって同級生に下着を見られたくないでしょう?」
 穏やかな笑い声が響く。
「僕のお古のパンツは穿けるのに?」
「洗えばきれいになります」
 臀部を伝い、染みこんだ精液の汚れもそのままの下着をランドリーボックスに放置することなどできない。
 隠蔽するために洗濯機のなかに放り込んだのだ。 デニムは辛うじて砂埃を吸い込んだだけで済んだので、そのまま粗雑に折りたたみ籠に入れた。
「他人との距離感に対する考え方が変わっているね。僕にはよくわからないよ」
 夜神は笑いながらピ、ピ、ピ、と指先でボタンらしきものを押した。唸るような音をたててモーターが動き出し、洗濯機槽の底部にとりつけられた 小型の羽が回転をはじめる。入水までは済ませておいたのだが、 残念ながら私の貧困な知識では、水量だの洗い方だの時間指定だのといった設定の基準がわからなかった。 だからそのままにしておいた。
 夜神はきっと母親の手伝いをする、良い子供だったのだろう。慣れた手付きで脱水までのセッティングを済ませ、軽やかに言った。
「それじゃ温まったら二階にあがってきて」
「はい」
 返事をした。
 直後に気付き、ひやりとする。
「夜神君」
「ん?」
「…二階のどの部屋に行けばよいでしょうか?」
 閉じかけていたドアが止まり、一拍呼吸を整えるような間があった。
「そうだったね。階段をあがってすぐの部屋だよ、まちがえないで。隣は粧裕だから」
「わかりました」
「じゃあ」
 今度こそドアは閉じられた。
 階段をのぼっていく足音を聞きながら、私はふうっと溜め息をついた。
 いっきに全身が緊張した。泥沼に踏込んだような眠気に襲われ、すこし油断しすぎていたようだ。 些細な引っ掛けだったが少々危なかった。おかげで完全に目は覚めた。しかし意識がクリアになったことでまた頭が痛みだした。
 精神的な疲労が抜け切れていない今、彼に近づくためとはいえ、夜神の家に来たことは失敗だったかもしれないと感じた。 自ら虎が潜む洞窟に入ってしまった。精神のガードが弱くなっている。いまの私は危うすぎる。
「………」
 浴槽の中で身をこごめる。
 ずるずると足を動かして、背中と樹脂素材の浴槽のかべとのあいだにスペースをつくる。 湯が入らぬように鼻をつまんで、尻餅をつくようにごろりと転がり頭の先までも湯船にしずめた。
 ぬるい湯の中で胎児のように丸くなりながら、考えた。
 幾ら考えたところで明確なこたえなど出ないことを、とりとめもなく考えた。
 たとえば聞き漏らしてしまった、足音。夜神は、帰宅してすぐに浴室に来たのだろうか。つまり自室に一度も戻ることなく、 私が彼の部屋に侵入したことに気づいたのだろうか。だとすればトリックは外部からも確認できることになる。気付いたのだろうか。 奇計を含ませたセリフは、怒りに端を発しているのだろうか。ズキリと鈍い痛みがこめかみを走る。思考を阻害されているようだ。 そういえば先ほども考え出した途端にあたまが痛みはじめた。夜神の部屋に足を向けたとき、気分が重くなった。 そういうことなのかと納得する。理由は明白だった。 つまり考えることを拒絶しているのだ。心が放棄したがっているのだ。いまだけは考えたくないのだ。
 夜神が『キラ』だということを。
 キラである証拠を探すこと。その言質を疑うこと。推理すること。それらのLとしての意識生活を深層心理の小さな子供が両手をひろげて邪魔をする。 あのとき天井の片隅の暗がりで膝を抱えていた小さな子供が、傷ついたまなざしで私を見つめる。夜神をキラであると疑いたくない。夜神の優しさを偽りとして受け止めたくない。 もし夜神が無実であるならば、私たちはただ…。
(…邪魔をするな)
 私はLだ。
 プライドを捨てるわけにはいかない。
 夜神はだれよりも私のなかでキラとして完全な存在だ。
 彼以外にキラたりえる人は知らない。
「………」
 息が苦しくなってきた。
 それでも尚、水中にとどまった。
 頭痛がひどくなった。
 つまんだ鼻の隙間から空気がこぼれ、細かな泡がぷくぷくと発生した。胸が苦しいのは、酸素が足りないせいなのだと思うことにした。



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