再警告。初っ端から強姦ネタです。あまりLたんに優しくないお話です。苦手な方は回避要
喧嘩けんか


 乱暴な手が私を押さえつけている。
 相手は複数だ。
 上下、左右、それぞれ別人が体重をかけ、私を床に縫い付けている。
 冷えた床の固さが、脂肪の薄い背の骨に当たる。
 中国音韻学の授業だろうか、どこかから四声を唱和する声が漏れ聞こえる。
 そんな平穏な大学の日常だった。
 それが私の身に起きた非日常を際立たせた。
 ぼんやりと、霧がかかったように意識がはっきりとしない。
 容赦なく顔を殴られた。立て続けに数回。その衝撃が尾を引いている。
 殴り倒され、そのまま此処に引き込まれた。 疼痛、下着もろとも脱がされたデニム、首筋に押し付けられた冷たいナイフ。抵抗する素振りを少しでも見せれば、突きつけられたナイフの背が皮膚に溝を刻む。 これが歯の部分であれば命もろとも首筋を切られている。そういう威嚇だ。
 おかしな話だった。
 なにもかも日常を逸脱し過ぎていた。
 理解が追いつかない。
 なにもかもが現実感に乏しかった。
 剥き出しにされた肌が春の冷たい大気に触れて粟立つ。
 曝された陰部が頼りなくすーすーと感じる。 しかし興奮に汗ばんだ若い手に太腿を掴まれると、鳥肌の原因はまったく別ものとなった。
 膝頭と脛を掴まれて、左右に大きくひろげられた脚のあいだに、嗤いながら伸しかかってくる若い雄が一匹。 威圧的なしぐさで私の顎を掴んで顔を正面に向けさせる。そうすれば恐怖に歪んだ顔を見ることができると思い込んでいる。
 どこまでも果てしなく下らない発想だ。
 下種な人間にとってはそれが常套なのだろうか?
 暴力で支配下に置いた者の、恐怖と苦痛を愉しむことが…。
 思った直後、怒りに血が沸いた。その一方で、怒りを圧するように、警鐘が鳴り響く。堪えろ。挑発するな。 無駄なこと、メリットのないことはすべきでない。しかし腫れ上がったくちびるは理性よりも先に動いた。 無表情のまま、私は嫌悪感をたっぷりと込めたツバを吐いた。 血液混じりの唾液は、頬にべたりと付着してゆるやかにしたたって、縮れた茶髪の男は驚きの様相が浮かべた。 短い眉が怒気にぎゅっと引き絞られる。 ガツという骨が当たる音。ぐらっと視界がぶれる。つづけて反対側からの殴打。とろりと右の鼻腔から血が滴った。 身を捩った腹部にはこぶしの連打を入れられた。
「てめえムカツクんだよ」
 咳き込む私の周りで、男たちも同調して低く哂った。
「テメエのせいなんだよ。テメエが悪いんだよ」
 記憶はなかった。まったくの初対面だった。 右と左、上と下、その五人の男たちすべて私の記憶にない顔ばかりだったが、相手は知っているようだった。
 恨まれる覚えはない。 言い返したところで凶行は終わらない。私は沈黙した。 テメエのせいなんだよ、テメエが悪いんだよ。男は単純な二語をぶつぶつと何度も繰り返しながら、 私の腰をじぶんに都合のいいように抱きかかえて、もとより腰履きでだらしなく着ていたジーンズを太腿のあたりまで落とした。パーマで傷んだ茶髪とは正反対に黒々とした陰部の毛並みを露出する。 中央には硬いオスが屹立している。先端の割れ目がじわりと濡れている。 私には性行為そのものよりも血や暴力にサディズムを刺激されて興奮しているように見えた。汚らしい涎を下からも上からも垂らさんばかりだ。
「だからぶっ壊してやるよ」
 男が薄い唇を醜く歪めた。
 固い指が閉じた肉孔を押し広げて入り口を保持すると、ぬるりと濡れた先端がグっと内側に迫った。
「……う、あ、…っ」
 本来の人体機能を完全に無視した暴挙だ。そう容易く入るはずもなく、 狭い入り口をひらかれる痛みに私はたまらず悲鳴を上げた。が、 その声は、開いた口に押し込まれた布のなかに吸い込まれて消えた。男が私の下着をまるめて口に捻じ込んだのだ。 くぐもった音声だけが閑散とした教室に漏れた。
 グっ、グっと二度ほど腰を揺すりうまく入らないと悟った男は、一度腰を引くと手のひらに唾を吐いて自らの陰茎をこすりたてて湿らせた。 そうして再び挿入を試みた。唾液にまみれた先端が今度こそぬるりと入り込み、じわじわと内臓のうねりを無理やり男性器のかたちに整えながら侵入した。 慣らされていないところを貫かれて冷汗が滲んだ。痛い。痛い。苦しい。悔しい。けれど感情は表情に出る一歩手前で殲滅した。 苦痛に歪む表情は相手の暗い愉悦を満たす。ことさら意識と肉体を乖離させるようにつとめる。 男はゆっくりと内部の抵抗を味わうように入り、奥まで全部が納まったところで、小さく腰を前後させた。反射的に私の腰が跳ねた。
「…ハっ、感じる?」
 侮蔑の込められた冷笑。本当の馬鹿だ。そんなものはただの肉の反応なのに。 殴られれば赤く腫れる。裂かれれば血が流れる。それだけ。肉体の反応など瑣末なものだ。どうでもいい。 唾棄すべき男の言葉に、私の一切は崩されたりしないしそうであってはならない。そう思ったとき、しかし、ひどい痛みが胸の中を切り裂いた。 考えるな。考えるな。捻じ込まれた苦痛は肉体だけに押し止めろ。そう、わかっていても感情が乱れた。
 私を犯しているのは、名前も、知らない男たちだ。
 半時前までは顔すら知らなかった。しかし相手は知っている。
 私を憎んでいる。
 世界中の、名も知らぬ万人から愛されたいと願うことはない。 しかし私を知る百人が、私を肯定しても、ただひとりが向けてくる非難を、そして悪意を、 卑劣な人間の矮小を、一笑に付して退けてしまえばいいとわかっていても、 肉体の繊細な部分を抉じ開けられて捻じ込まれれば、こころも、共に傷つけられる。
 それはどうしようもないことだった。
 飄々とした顔つきで痛みに対し無自覚な振りをするのは容易であっても。
 人間としてそれは真実ではないのだ。
 腰を突き上げられる。
 穿たれる痛みに身体がこわばる。
 そのたびに男たちが哂う。男たちを悦ばせる。嗜虐心を満足させる。握り締めたこぶしが震えた。
 駄目だ。
 反応するな。
 傷つくな。
 繰り返し胸のうちで唱える。私は大丈夫だ。
 私は大丈夫だ。鉄面皮を保ち、教室の蛍光灯を見あげた。 狭窄する視野の天井のすみに、 深遠の手に負えないところで小さな子供が膝を抱えて泣いている、そんな暗がりの幻惑を見た気がした。





 どこか遠くで授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
 それが終わりの合図だった。
 一巡したのちの三人目が急なピッチで腰を振っていたが、 鳴り出した鐘声に気付くとまるで怯えたように素早く硬直した性器を引き抜いた。 七回分の精液と空気が入ったそこから卑猥な音を立てて退いた。くぷりと音がしてゆるんだ孔からは白濁した欲望が溢れた。 強姦の証拠となる体液を私の中に残していくなどどうかしていると思ったが、 もともとどうかしている連中なのだからそんなものなのだろう。 喉を犯していた別人の熱も同じように引き抜かれた。
 男たちはそそくさと陰茎をズボンのなかに仕舞い込み、衣服の乱れを整えると目配せを交わした。 いまさら暴れて一矢報いる気力もなく、くたりと床に転がっていた私の腹部をひとりが蹴り上げて、別のひとりが床に落ちていた 携帯電話を踏みつけた。
 折りたたみ式がバリっと音をたてて中央で割れた。
 床のうえで背を丸めて、蹴られた腹部の痛みに耐える。
 携帯電話、
 そうだあれは私のだ。
 脱がされたデニムから落ちたのだ。ワタリのどんな状況でも落ち着き払った横顔を思い出される。
 助けを呼ばなくては。
 身体を床に転がしたまま腕を伸ばしてデニムを手繰り寄せる。 捜査員たちとおなじように、バックルは発信装置になっている。 押せばワタリから折り返し電話が入るが、私の携帯電話は通話不能だ。異変に気付くだろう。
 しかしそのまえに汚れを落とさなくてはいけなかった。いくらワタリでもこの惨状には仰天する。
 男たちの出て行った後、痛む下半身をかばいつつ、ゆっくりと上体を起き上がらせた。
 のろのろと立ち上がる。
 遠慮なく射精された孔から白濁が零れ、太腿を伝った。すこし身を動かすたびに、こぽりと音をたて、空気とともに溢れてくる。 それでも今はどうしようもなく、私は丸まった下着をひろい上げて足を通した。デニムを腰で履き、スニーカーを突っかけた。
 ふらつく頭を押さえつつ、教室を出て、男性用と書かれたドアを押す。幸いにして人は居らず、私は壁の鏡を覗き込んで殴打の傷を確かめた。 こめかみの右が鬱血して腫れあがっていた。それから上唇の端が。指先で押さえるとピリリと痺れるような痛みが走った。
 蛇口を捻る。Tシャツを脱ぐ。溢れ出した湯のなかにシャツを浸す。 全身が気だるく腕に力が入らない。シャツを固く絞ろうとしたがうまくできなかった。 水を滴らせたまま傷口や髪の汚れを拭う。痛みのせいもあって、不器用にのろのろと指先を動かしていると、 拭うことで拡散した血や精液の匂いが、鼻を突いた。
 その瞬間、ふいに足元の底が抜けたような疲労感に襲われた。
 唐突になにもかもすべてを放棄したい衝動に駆られた。
 なにもかもが面倒に感じられた。
 できるなら投げ出してしまいたかった。
 自分自身の存在そのものについて放棄してしまいたかった。
 普段は気にも留めない、肉体という鎧の重みがひどく疎ましい。
 固い洗面台にすがるようにその場にしゃがみ込む。 失敗した。いったいどこで恨みを買ったのか。記憶の底を漁ったけれどやはりどの顔も見覚えがない。 なおも思い出そうとすると、濡れた薄紙が張り付いたように意識に靄がかかった。 酷い頭痛がした。思考を中断する。切り裂くような痛みは止まない。五人の男に寄ってたかって犯されたのだから当然と云えばそうだろう。とにかく疲れきっていた。 それでも倒れてしまうわけにはいかなかった。
 気力を振り絞って立ち上がり、流しっぱなしの洗面台のなかに両手をさしこんで湯をすくい、 粗雑に顔の汚れを洗い落とした。シャツを濡らして絞りもせずに頭からその水滴を浴びた。雨に濡れたネコのようにあたまをぶるりと振り、 顔をあげる。洗い流したことで幾分すっきりとして、痛みも和らいだ気がした。濡れたシャツをステンレス製のダストボックスに押し込む。
 帰らなければならない。痛みにいつまでも心を引きずられているわけにはいかない。
 ギイと錆びた蝶番を軋ませ、ドアを引いた。
 そこで薄茶色の眼と真正面からかちあって、おもわず息を呑んだ。
 同じ目線。
 こげ茶色の髪に縁取られた秀麗な貌。
 鋭い思考を備えた。
「え、流河?」
 彼は、私を見て驚きに目を丸くした。
「…夜神君」
「なんでこんなところに…」
「……」
 何故、おまえがここにいる。
 らしくもない動揺から咄嗟にそう思ってしまったが、それはひどい誤りだった。 そもそも私は夜神に会うために、出会うことの約束された講義の教室へと向かっていたのだ。そして講義の教室はこのフロアにあり、 夜神がこの男性用トイレを使用する可能性はあったのだ。
「……っ」
 夜神の指先がふいに私に向かって伸びてきて、おもわず半身を引いた。
「どうした、この傷」
 私の動揺を気にも止めず、夜神は細く長い 指先でそっとこめかみに触れた。
 ひんやりと冷たい指先に鬱血した傷が心地よく痺れて、私はとっさに嘘をついた。
「…喧嘩です。たいした」
「誰に殴られた?」
 みなまで聞かずことばを重ねる。その口調はあきらかに剣呑として響きを含んで、 同時に目つきまで鋭くなっていた。夜神は、秀麗な容貌に驚くほど危うい気配を漂わせた。
 鮮やかな変貌に、内心では目を見張る思いだったが、上辺は平静を装い、無表情に告げる。
「出血は止まっています。大丈夫です」
「……」
 夜神は沈黙した。
 青紫の皮膚をなぞった指先がそのまま下におりて、濡れた頬に触れる。 奇麗な五指が大きく開かれて頬を包む。びしょ濡れの髪を見てどう思ったかはわからない。 ただ敏感そうな彼の鼻が、男たちの行為の残滓を嗅ぎ取らないように、私は切望した。
「おかしいよね」
 と、夜神が言った。
「ただの喧嘩っていう傷じゃないと思うけど」
 偽装を剥ぎとる目つきで問いかける。
「見た目ほど酷くはないんです。それに倍以上やり返しました」
 これはただの喧嘩なのですよ、と私は繰り返した。
「私は人から疎まれやすい性格なので、喧嘩を仕掛けられることも多いんです」
「はは。自分のこと、良く知っているじゃないか」
 皮肉混じりの乾いた笑い。
 びっしょりと濡れた頬の水気をはらうように指先がうごき、ぬくもりを残して遠ざかる。 長い睫のまなざしがすっと横に流れ、ジャケットのポケットを探った。
 折り目正しい青年のポケットからは、ハンカチが出されて手渡される。
「ありがとうございます」
 ハンカチ一枚じゃ全然足りないねと、夜神は呟き、思案げな沈黙とともに斜め下の床のあたりを彷徨わせたあと、鋭い視線をあげた。
「で、原因は?」
 柔和な声音だったが芯は強かった。どうあっても聞きだすつもりらしい。
 私は内心でため息をついた。面倒だと思った。そして私は何故とっさに嘘をついてしまったのだろうかと考えていた。 はじめに嘘をついてしまったことで更に偽りを重ねなくてはならなくなり、億劫だった。 強姦されたことが私の弱みになるとは思えなかった。弱みとして付け込んできたら、仕返してやればいい。 誤魔化す必要もなかったのだ。頭の痛みが少しきつくなった気がした。
「なんでケンカになった?」
「…知りません」
「どういうこと?」
「私がムカツクと、それだけで」
「傷具合からすると相手は複数人だろ?」
 じろじろと不躾なくらい傷口を凝視され、憶測が閃いた。
「先に断っておきますが、名前の知らない人です。相手を調べ、キラのように制裁を加えるという考えは、絶対に持たないで下さい」
「僕はキラじゃないよ。それにそいつはキラに殺されるほどの悪事を働いたわけじゃないんだろ。安心しなよ。 ネットの殺人掲示板に曝したりしないから」
 即答だった。
 図星だったのだろうか。
「随分と過激なことを言いますね。ますます教えられなくなりました」
「なんだ。やっぱり知ってるんじゃないか。誰なんだよ、竜崎をここまで打ちのめしたやつ」
 沈黙したまま答えなかった。
 キラは名前と顔を知り、念じるだけで人を殺す。
 だとしたら私を犯した男たちの名を告げたら、 夜神は彼らを殺すだろうか?
 ──まさか。
 そんなことがあるわけない。連続強姦殺人犯ならまだしも、 彼らの悪事はキラ殺人の死の基準には達していないだろうし、ましてやこの状況で、連中が 立て続けに心臓麻痺で死亡するようなことがあれば、それこそ夜神がキラである。
 疑い深いまなざしが私を鋭く睨みつけてくる。その目を見つめ返して逸らさない。 一番シンプルな駆け引きだった。睨めっこをして笑ったら負け、そのように、目を逸らした方が負け。 押し付けられる視線をつよく押し戻す。深みのない、ただの腹の探りあいは、普段ならばそれなりに刺激的で痛快なことであったかもしれないけれど、 今日の私にとっていささか苦痛を感じるものだった。
 それだけ気力が疲弊していたし、夜神の存在は、もとより私の精神を圧迫する以外にないのだ。
「言いたくないか…。やっぱりそうなんだ」
 と、夜神がうつむいて肩を落とした。
「わかってはいるけれどね」
「……」
「どれほど問いただしたところで、流河は、僕に真実を話したりしないんだね」
「……」
「それで僕が哀しんだりするなんて思いつきもしないんだろうね」
 ポツリと零した言葉に、私は顔を顰めた。
 それは私のすべてに対する皮肉とも取れ、またキラの偽装を捨てた本音にも聞こえた。
 ただそう聞こえてしまったのは感傷に過ぎないと分かっていた。
 唇を引き上げるだけでべつだん返事をしなかった。夜神も同意が欲しかったわけではないだろう。
「あのさ」
 夜神が顔をあげた。
「流河の家ってここからどれくらい?」
 秀麗な容貌に相応しい爽やかな笑みで問いかける。
「家、ですか?」
「例のリムジンはもう呼んだのか?」
「…いいえ」
「呼んでないなら僕のうちで手当てするよ。タクシーだとそんなに遠くないんだ」
「ワタ…」
 とっさに言いかけた言葉を飲み込んだ。ワタリという人物、私の片腕である老人の存在は、今まだ知られるべきではない。
「わたしは、これくらいのことなら慣れていますから」
 置き換えたことばを告げて、殊勝に申し出を辞退する。 その頭の片隅で、監視カメラ越しに観察した青年の部屋の洋装が思い出された。 しかしすぐさま意識的にかき消した。 誘われてついていったところで、そこに何かしらの物的収穫を望むべくものでない。
 もし望むとすれば、たとえばキラの思想、夜神の思想を断片。その程度のことが知れればいい。 事件解決の糸口が少しでもつかめればいい。
 たとえば夜神の怒り。
 善意と悪意。
 正義と…。
 考えていたが、ふと思いがけず、そんなことはどうでもいいという気分になった。
「そんな格好だと風邪をひくよ。春でもまだけっこう寒いんだし」
 夜神が、私の髪が濡れたままであることも気にせずに、自分が着ていた薄手のジャケットを羽織らせたのだ。
 私は、それを温かいと感じた。
 そして私自身の感情に対して失望した。
「…お借りします」
「家においで。遠慮することはない。シャワーを浴びて身体を暖めたほうがいい。それに僕がキラだっていう証拠は自宅にないから、 僕としては何も不都合はないよ?」
「自宅にないならどこにありますか」
「どこにもないよ。この地上のどこにもね。流河ならきっとそういうことを考えるだろうなと思って言ってみただけ」
「夜神君のご自宅は、夜神さんにしっかりと調査していただいています。怪しいものはありませんでした」
「はは。父さんか。いったいどこまで流河に知られているのかな。じゃあべつに僕の家に来ることは 捜査抜きでいいのかな?」
 牽制じみた言い回しだったが、これはLである私に対して特別に設えた冗談だろう。深く考えずに首肯した。
「では、お言葉に甘えさせてください」
「うん」
 夜神が微笑む。
 私は会釈程度に頭を下げ、夜神から目をそらした。
 肩を押されて歩き出す。
 ことさらゆっくりと私と歩調をあわせるように彼は歩いた。
「………」
 頭痛は続いていた。
 この痛みを無くしたいと思った。
 けれどバックルを二回まだ押していなかった。ワタリを迎えに呼んでいなかった。 ワタリがいなければ私はひとりで帰ることもできない。
 そんなふうに理由をつけても結局のところ、これは感傷なのだ。
 認めたうえで白状するなら、嬉しかったのだ。肩に掛けられたジャケットの温もりがただ嬉しかった。
 だから惜しかった。
 温もりを払いのけてしまうことが、今の私には、できなかったのだ。



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