れ】


 日付が変わって随分経つ。月は本日、三度目のため息をついた。
「竜崎。もう寝よう」
「まだ少し…」
 PCに向ったまま竜崎は振り向きもしない。
「だめだよ、おまえは根を詰め過ぎる」
「集中してるんですよ」
「だったら余計に脳を休ませないと。仕事の効率も落ちる」
「私は特殊体質で…」
 まともな会話が成立しない。
 午前二時だった。
 他の捜査員たちはそろそろ仕事を切り上げようと片付けに入っている。
 早朝のミーティングを終え、それぞれの作業に移ってから、ゆうに十八時間以上が経過している。
 その間、竜崎はレストルームに立つ以外、まともな休息もとらずパソコンモニタを睨みつけている。オーバーワークも甚だしい。
 一メートルと長さのない鎖につながれている相手へ、月は無駄と知りつつも切々と語りかける。
「竜崎。この捜査の全権を握っているのは、おまえだろ。捜査方針は、会議を挟んで随時皆で決定しているように見えて、結局のところおまえが都合のいいように、好きなように進めているんだ。恐らくヨツバキラに関しては、かなり先まで捜査の青写真を描いているんだろう。それを判断が分岐するごとに小出しに提示して、皆で方針を固めているように見せている。逆に言えば、捜査方針の全貌はおまえの頭のなかにしかない。それにきっと秘密主義のおまえのことだから、僕たちには晒していない極秘の捜査資料も持っているんだろう。つまりおまえが倒れたら、捜査は暗礁に乗り上げる可能性だってある」
「秘密なんて…そんな…」
「おまえは実際に父さんたちの上に立っているんだ。指揮官としての責任を負っている。それくらいの自覚はあるんだろ?」
「ええ…まあ…」
「だったら少しは自分を労われ」
「………」
「健康管理をしろ。そのうえで捜査をすべきだ。それも仕事のうちだろ。 全身全霊を傾けて捜査に挑むのは結構だけど、それで心身を壊したら結局のところ配下の捜査員に迷惑がかかる。 おまえが身動き取れなくなったことで捜査が遅れたら元も子もない。そうやって無理をして、結局はおまえのわがままじゃないのか?」
 強い調子で言い募ると、竜崎はようやくモニタ画面から視線をはずした。
 操作していたマウスの背を指先で神経質に叩きながら、苛立たしげに月を見つめる。黒い大きな目のなかには、明白な拒絶が浮かんでいた。
「強情な性分で申し訳ないですが、何度も言います。今はもう少し仕事をしたい気分なんです。手錠でつながっている限り、あなたを付き合わせてしまい、申し訳ないと思っています。心配していただいて有り難うございます。ですがこれは私が好きでやっていることですし、勿論わがままと言われればそうなのでしょう。ただ以前であれば二日三日の徹夜も当たり前でした。つまり私の身体はこういった状況に慣らされている。むしろ仕事を放り出すことこそ、いっそ私の精神を圧迫します。だから私のことは放って置いてください」
「……竜崎」
「必要ならここに寝具を運ばせます。どうぞ先に休んでください。おやすみなさい」
 切り上げ調子にそう告げて、くるりとパソコンに向き直り、あきれはてた月を無視して没頭の体である。
 とんだ頑固者だ。
 月は四度目のため息をついた。
 やる気を出せと叱咤したのは月の方だ。夜神月を逮捕しただけではキラ事件を解決できない、そう悟った竜崎のあまりの腑抜けた体たらくに殴りつけさえした。 それが一転、ヨツバという糸口を見つけたあとは異常なほど捜査にのめり込んでいる。 睡眠を削り、食事を疎かにし、もともと私生活は皆無に等しいのだろうが、竜崎がいくら慣れていると主張しようとやはりこれは少し異常だ。 このままでは本当に体を壊してしまう。
 椅子を軋ませて月はテーブルに肘を付けた。立て肘に頬を乗せて拗ねた表情で竜崎を睨みつける。
 竜崎はことさら意識して、月の存在を拒絶し、無視した。
 月は、黒い蓬髪に縁取られている横顔を見つめた。男性とは思えないほど細く、深窓の令嬢もかくやといった病的な白さの首筋。そこから堅い線を描いて伸びている腕も、骨ばった手首も、カタカタとキーを叩く指先もおなじように細い。 生活自体は飽きれるほど奢侈なのに、それを受け入れている肉体はなにかを限界まで削り取ってしまったあとの残骸のように痩せている。 白い貌に、不釣合いなほど黒く刻まれた目元の隈。黒い瞳。ブラックホールのように光すら消滅させたような大きな黒い瞳は、瞬きをするたびに、不規則に瞼の下に隠される。 その目が永遠に閉ざされるイメージ。白い亡骸。煽られる喪失感。どうしてそう思ってしまうのか、 月の才をもってしても上手く説明することはできない。白と黒の鮮明なコントラスト。竜崎はどこか死の匂いがする。
 悪い想像を断ち切るように、月は眉をひそめ、つよくゆっくりと瞬きをした。
 瞑った目を深呼吸とともに開けば、猫背の青年が目を閉じる前と同じ真摯さでモニタをみつめている。目元の隈がこころなしか酷くなった気がするのは、モニタ画面の光加減のせいだ。
「竜崎」
「………」
「…L」
「………」
 やはり黙殺された。
 もどかしさに胸を痛めながら、月はこぶしを固くした。
 月は、なにも捜査指揮官たるLを失うことを恐れているわけではない。
 たしかにLは素晴らしい人間だ。鋭い勘と豊かな叡智、そして揺るぎない信念と決断力を有している。 おそらく月とはそう歳も離れていない。まだ二十代だろう。その若さでキラ捜査の全指揮権を担っている。 覚悟も精神力も相当なものだ。あきらかに不自然な死を作り出している、キラと係わりがあるだろう組織だが、 しかし彼らはキラそのものではない。ヨツバ程度の捜査であれば月にもできる。
 月は恐れているのだ。
 単純に云えば、竜崎という人間が体を壊したり、病に苦しんだりする姿を見たくないのだ。 健康に、懸命に、仕事を続けていてほしい。
 しかしその想いをどうやって伝えればいい?
 捜査に対してはことさら頑固で情熱的で一直線な探偵をどうやって説得したらいい。
 説得などできやしない。
 それは酷く苦しいことだった。
 尊敬している、失いたくない、得がたい友人だと思う相手に、伝えたい想い。
 しかし想いは通じない。
 思いつくかぎりの説諭を重ねても無駄だ。
 感情論に流される相手ではない。
 なにせ相手は竜崎なのだから。


 月は唐突に立ち上がった。金属が床をこする音がした。
 竜崎は一瞬、身構えた。
 しかし月の行動は竜崎の予想の範囲外だった。
 月は、竜崎の背後にまわると、そのまま強く抱きしめた。
「………っ」
 驚いた竜崎は、キーボードを叩く指先もそのままに全身を硬直させた。
 まさか総一郎や松田たちがうろうろと歩き回っているなかで、抱きしめられるとは思ってもみなかった。
 せいぜい殴り合いの乱闘が関の山だと、その点は身構えていた。
 完全に予想の裏をかかれた。
 バサバサと背後で書類の散乱する音がした。松田っと相沢が叱咤する声がした。 しかし月は微動だにせず、竜崎を腕の中に閉じ込めたままだった。
 突き放すべきかと竜崎は考えたけれど、それもできなかった。
 完全に抱きすくめられる形となり、月の腕に込められた力は思いがけず強かった。
 だから拒めなかった。
「………」
 月はなにも言わなかった。喋れなかった。喉元にまで伝えたいことが込み上げてきて、溢れそうになっている。それは曖昧な不定形でどろどろとしていたけれど、すべて「幸せになってほしい」と云う類のことだった。 しかしどれも喉から発せられる前に壊れてしまった。
 きっと幸せにはなれないんだろう。ありふれた幸福など似合いはしないんだろう。ましてや竜崎も求めていないんだろう。否定がつねに先を行った。それが月からことばを奪った。
 高揚か、沈静か。
 それだけに分別できる。
 つまりは優秀すぎる脳をもてあました堕落か、過剰なまでのオーバーワークか。
 すでに竜崎は態度で示しているのだ。同一人物とは思えないほどの変貌。目標を失ったときの倦怠、標的を捕捉したときの行き過ぎた情熱。それ以外に選択肢はない。竜崎自身も欲していない。
 月は、竜崎の髪に鼻先をうずめて涙を堪えた。何故泣きたくなったのかはわからなかった。 白い亡骸のイメージがしつこく脳髄の根底を苛めている。確信めいた喪失の予感が咽喉をせり上がって来る。 振り払うように頭を揺らし、ますますと腕に力を込めた。しかし消えてくれない。 どうしても消えてくれない。失いたくないと強く思うほどに足元が崩れだす恐怖を感じて、月はたまらず混乱しそうになった。
「……月」
 背後から肩を叩かれて我に返った。
 混乱が決壊する寸前で、押し止めてくれたのは、総一郎だった。振り返ると、総一郎が落ち着いた物腰で微笑していた。
「大丈夫か?」
「…父さん」
 月は腕の力をゆるめて身を起こした。
「竜崎も」
 総一郎が柔和な声音で呼びかけたけれど、竜崎は叱られた子供のように前を向いたままわずかに俯いたままだった。総一郎はいっそう微笑みの皺を深くした。相沢が少し離れたところで、少しこまったような、けれど優しい表情をしていた。 彼らにとっては、いくら優秀であろうとも捜査を別とすれば、そこにいるのはただ保護すべき若い青年たちでしかない。
「二人とも休みなさい」
 穏やかだけれど、反駁を許さない声で総一郎が告げる。
「父さん」
「月。風呂にでも入ってきなさい。竜崎も連れて」
「……」
「…頭を冷やんだ。月」
「……うん」
 肯くと、総一郎も微笑したまま首肯して返した。
 月が手首の鎖を引くと、竜崎は思いがけず素直に従った。
 絨毯のうえに裸足を下ろして、俯き加減のまま月の後を付いていく。
 痩身のふたりが捜査室から消えた後、捜査員たちのくちびるからはそれぞれ小さな苦笑が漏れた。



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