センター試験しけん 

都心でも氷点下をマークしたそうだ。
雲ひとつなく澄み渡った冬晴れなのだが、大気は皮膚を切り裂くようにつめたい。
今朝のニュース。天気予報コーナーでは、日本列島上空に、この冬一番の寒気が流れ込んだためと気象予報士が解説していた。厚手のコートを羽織っても庇いきれない首筋や耳朶が、外気に触れ、ピリピリと痛みすら覚える。 夜神月は凍ったアルファルトを踏みしめ、足早に歩いた。
『月、頬が林檎みたいに赤いな』
「……」
『人間は、暑いとか寒いとか、気候状態に左右されて大変だなー』
月の斜めうしろの低空をゆったりと羽ばたいている、黒い死神はいつもと変わらぬ風体だ。厚いコートを着込んだ月を見おろし、下らぬ嘲弄を口にする。
どうも舌の回転が軽い。
つい先日、Lとの監視カメラごしの駆け引きが収束したばかりで機嫌が良いのだ。リンゴを部屋のなかで堂々と食べれるようになったおかげか。
しかし月を相手に軽口を叩くなど、墓穴を掘るに等しいことだ。月は周囲を注意深く見回し、人気のないことを確認し、低く言い返す。
「リュークは寒暖の刺激からすらも遠ざけられて退屈だったんだろ?」
「うほっ?」
「死神は、本当に、可哀想だね?」
ゆっくりと言い聞かせるように言葉を区切る。 途端に黙り込んでグウの音もない。パタパタと黒いコウモリにも似たつばさを羽ばたかせながら無言で恨めしげな気配を漂わせてくる。
そんなリュークの反応が可笑しくて、月は俯きがちに小さくわらった。

コートの袖口を少し引きあげ、腕時計を見た。
予定通りとひとりごちる。
今日、全国で一斉にセンター試験が開催される。
月はその開始時刻の3分前に到着するように歩いていた。
予定通りだった。
このまま行けば予定通りの時刻に到着する。
急ぐ必要はない。
確実だ。
しかし少しだけ歩みは早い。
焦っているわけではない。
これは寒さのためだ。
寒さのせいで自然と歩みは早くなる。
ハアと息を吐き出せば、肺からの水蒸気は瞬時に白い結晶となった。

雪が降らなかったのは受験生にとって僥倖だっただろう。
毎年一月のこの日は、まるで受験生を苦しめようとするように雪が降った。
首都の交通網は混乱し、多くの受験生が試験開始時刻に間に合うか間に合わないかの瀬戸際に立たされた。頬を真っ赤にした若者たちが焦った表情を見せた。それでも雪は降り続けた。受験会場のいくつかは試験開始時刻を遅らせ、子供たちの未来を救いとろうとした。 白い雪は人々に踏みしめられて灰色に濁った。

今年はとても天気が良い。
冬晴れの空は高い。
太陽の光は、仄かに甘く匂うと錯覚するほどに暖かく優しい。

お兄ちゃん頑張って。
出際に掛けられた妹の声援が思い出される。
頑張らないよ。
まだ序の口だろ。
努力する甲斐もないほどに、物事は簡単に思い通りになる。
すべては無意味だと感じるほどに。
いっそ雪が降ればいい。
そうだとしても遅れることなく目的地へ辿りつくだろう。




「そこ…。受験番号162番。ちゃんと座りなさい」
試験監督員の声はあきらかに困惑していた。
異質な存在の対処方法を見つけられずにいる声音だった。
シャーペンが紙を滑る音ばかりの静かな受験会場に、緊張が漲った。その声の響いたほうに向け、全員の神経がトゲとなり突き刺さった。
けれど誰も振り向いて見ることはしない。カンニングの容疑を着せられるようなことをしてはいけない。受験生の鉄則だ。無論、月とて知らぬはずがない。どこかの無作法者が、試験監督員の顰蹙を買ったのだろうとぼんやり思う。
それだけのことだ…。
なのに月は何故かそのとき振り返ってしまった。
気になったのではない。
ただ振り返ってしまった。
そう思いたい。
そこに誰がいる。
月が他人に関心を示すことは無い。
誰がいたとしても関係はない。
二人の受験生を挟んだ3列後方。机に両足を掛けて座っている男。呆気にとられた顔つきの監督員が横に立っている。
よれたシャツに古着のようなジーンズを掃いている。
現実から切り離されたような存在。
あの男。


あ、

しまった。

目が合ってしまった。

闇色の瞳はこちらを凝視していた。
たしかに月の反応を待っていた。
束の間、鋭い視線を絡ませて睨み合い、ふたたび月は答案用紙にむきなおった。
野性の眼。
底知れない闇のような黒さをたたえた。
あれは…。


心臓が音をたてた。

試験監督員は暫し受験番号162番に無言の威圧を与え続けたが、他の受験生が気を散らして問題に集中できていない気配を察し、諦めたようだった。ごほんとわざとらしい咳払いを残し、踵を返した。
苛立った足音をひびかせ、月のわきを通り過ぎて壇上のパイプ椅子に戻る。
男性の背広に染みついた湿気た匂い。
それを追いかけるように微風がつづいた。
監督員が動くことによって、あの異質な存在のところから運ばれてきた空気。
…ほのかに甘く匂った。
月は、今朝の陽のひかりを思い出した。生命を祝福するような優しく温かい甘みを思い出した。焦燥。胸騒ぎ。危険な予感。シャーペンを握る指先がぶれた。死神がククとほくそ笑む。ああ忌々しい…。

だから、
嫌なんだ。
こんな日は雪が降ればいいんだ。
こんな日は何もかも真っ白く塗りつぶして灰色に踏みにじってしまえばいいんだ。
こんな日は、すべてが混乱してしまえば…
こんな日は、自分だけがたどり着ければ…
こんな、出逢いがないように…
こんな日は、こんな日は、こんな日は……


出逢ってしまった。
二人。