神様カミサマ  


神様キラサマ神様キラサマ、お願いします。
わたしの大切なひとり娘の、耳を削いだ犯人を裁いて下さい。
わたしの大切なひとり娘の、耳を削いだ犯人を裁いて下さい。
あなたが本当に神様なら。
居場所のわからぬあの犯人を裁くことも、きっとできることでしょう?
お願い、お願い、神様キラサマ



背広の内側で携帯電話が震えた。広い屋敷の廊下の中ほどを歩んでいたワイミーは、歩みを止めぬまま着信表示を確認した。そして、その番号が予てよりワイミーと昵懇の間柄である実業家の自宅のものだと知り、かすかに瞠目してようやく立ち止まった。
「はい」
応答したとたんに溢れ出す、切迫した中年男性の声量にワイミーは眉をしかめた。 しかしそれは刹那のことで、すぐさま仲介者としての沈着冷静な横顔を取り戻す。
実業家は、この電話はワタリという男につながるものかと大声で尋ねた。仲介者である者の名を、たしかに男は問うた。
そして矢継ぎ早につづけた。
つないでくれ、今すぐ『L』に。
「この電話番号をどこから手に入れたのですか?」
恐らくICPOの腐敗官僚から買収したのだろう。あの男か、もしくはあの男か…と秘匿されるべきワタリへの直通電話番号の漏洩先にあたりをつけつつ殊更冷やかに応対すると、相手は鼻白んで言葉につまった。 この電話を通じた音声は、自動的にまったく別人の──ジャパニーズ訛りの若い男性の音声に変換される。 ワタリがワイミーであるとはけして相手に知られない。 つまり実業家は、自分がLとコンタクトを取る際のルールを破ったことを、声を聞く限りは遥か年下の若造に指摘されたことに気分を害したのだ。
実業家は数秒沈黙し、それから口早に最愛の娘が誘拐されたことを訴えた。誘拐グループはおそらくXXXと呼ばれる誘拐専門の犯罪組織であること、彼らの居場所を捜索し、娘を無事に取り戻してほしいこと、報酬として、イギリス国防費の約一割に相当する巨額を用意していることを口早にまくし立てた。だから世界最高峰と呼ばれる探偵Lの手助けが必要なのだと。 ワイミーの詰問を黙殺したのだ。
普段の彼であれば、こんな無礼は働かないだろう。冬でも始終汗ばんでいるような太い胴回りの巨漢だが、暑苦しい見かけによらず、礼儀正しく清々しい紳士なのだ。つまりそれだけ追い詰められているということだった。ワイミーは静かに胸のうちをいためた。彼が溺愛する末の子がたしか五歳になったばかりの幼女。 誘拐専門の犯罪グループは、要求額さえ支払えば対象を殺さず帰還させるものだが、しかし幼女の身体が一切傷つけられないとは限らない。
あの小さな子の指が…
耳が…
チラつく悪夢。
しかしワイミーは眉根を固く引き絞り、現実に成りうる悪夢を切り捨てた。
「Lはここには居りません。そして現在、私をもってしても連絡を取ることは不可能です」
電話越しにヒステリックな悲鳴が轟いた。たすけてくれたすけてくれ!
私の娘を、たったひとりの最愛の娘を!
お前は世界最高峰の探偵なのだろう、誘拐犯を拘束するなど容易いことなのだろう!?
金ならいくらでも支払おう!
ああ、神よ!
たすけてくれ!
切迫した声音に泣き声が入り混じる。巨漢を屈めて小さな電話機にすがりつく、実業家の父親の眼差しは、涙に濡れているだろう。
彼はただ守りたいのだ、
娘を。
わかっている。
けれどワイミーも守るべき存在を持っている。
何にかえても保護すべき。
だから断腸の思いで告げ、ワイミーは静かに電源を切った。
「…申し訳ございません」

ああ、神よ!
たすけてくれ!

鼓膜を揺さぶる絶叫がいつまでもワイミーの耳孔に残った。



通話の途絶えた携帯電話を握り締めたまま、沈着冷静な老翁らしからぬ苦悶の表情で立ち尽くしていたワイミーの背後で、ふいに静寂に溶け込むような青年の声が響いた。
「受けようか?」
我に返って振り返ると、捜査に没頭していたはずの若い主が、 瀟洒な彫刻の施された扉に凭れかかり大きな黒目でひたりとこちらを見つめていた。 つねの如く背中をまるめ、ジーンズのポケットに手を突っ込んでいる。 音も無く、ネコ科の肉食動物のような身のこなしで、一体いつそこに現れたのだろう。 極秘人物の仲介者として躾けられたワイミーをもってしても、気配すら気付かなかったほどだ。
「今の依頼」
事も無げにLは告げた。
「受けよう」
「……L」
「その人が案じているのは我が子の安否のみなのだろう。誘拐グループの要求金額を支払う気があるのなら、事件は長期化しない。 解決はそれほど難しくは無い。引き換えに多額の資金援助を申し入れてくれるなら、悪い話ではないようだが?」
「L、過ぎた気遣いは無用です」
電話を背広の内側へと仕舞い込みながら、切り上げ調子でワイミーは返した。
Lはふうっと大きな闇色の瞳を眇めてわずかに首を傾いだ。 反駁する気はないが、かと云って納得をしているわけでもないという様子だった。悪癖から齧りすぎ、必要以上に短くなってしまった親指の爪をまた唇に寄せながら、Lは、不思議そうに大きな目を丸くする。ワイミーはそんなLの不満気な仕草を頑なに無視した。
年若い主はここ一週間、少々変わった事件の捜査に没頭していた。
突如として現れた正体不明の殺人鬼、インターネット上では『キラ』と俗称を与えられた大量虐殺犯の追尾だ。
元はと云えば、ICPOより受けた依頼・某国のマフィア幹部のアジトの捜索に端を発する。アジトを発見して、Lの命令によって特殊部隊が突入したときはすでに全員が心臓麻痺で死亡していたのだ。「マフィア全滅」の一報をうけたとき、Lは「まさか」と声を荒げた。Lは自分以外の何者も探し当てることができないと確信していたのだ。 そして幹部数十人が全員、心臓麻痺で死亡しているという不自然な現象に囚われ、以来、寝食を忘れたように情報分析に明け暮れている。
ワイミーは、このような状態のときに、他の仕事を片手間のようにこなさせる気はさらさらなかった。たとえこの件で相手の不興を買い、今後の資金提供のいっさいを期待できなくなったとしてもだ。
実際のところ、電話相手が申し出た援助額は、他の提供者たちと比べものにならない額だった。金銭感覚の麻痺した探偵は湯水のごとく浪費していく。 資金はあればあるほど良い、というのが本音だが、しかしワイミーはけしてLに無謀な仕事量をこなさせるつもりはなかったし、それをコントロールする役割を自認していた。
この世には犯罪や不幸が満ちている。
しかしどれほど有能であろうとも、Lはたったひとりの人間なのだ。
世界中の不幸なひとびとによってLを忙殺させるわけにはいかない。Lは救おうとするだろう。解決できてしまえるからだ。
一度引き受けた仕事は確実に解決するとの称賛の裏に、Lは仕事を選ぶ、我が侭な探偵だという悪評が立っている。
それで良いのだ。
壊されるわけにはいかない。すべてを救い切れるわけがないのだ。手の平から零れる砂を一粒づつ拾い上げることは不可能だ。そんなことができるとしたらそれは正しく神と云えよう。しかしLは神ではないし、Lを神聖な存在に祀り上げるつもりはない。
そのために自分が居るとワイミーは思う。
守るために存在する。
ワイミーには犯罪によって苦しむ人を救うことはできない。そういった方面の才覚は無い。
だから不世出と謳われる世界最高の探偵を、──否、それだけでなく、この青年そのものをどんな犠牲を払ってでも守り育てようと決意していた。傷つきやすい突然変異を守るのが影なる守護神の役割なのだ。
「ところで捜査の状況は?」
壁にもたれたまま未だ凝視してくる青年へ、ワイミーは一呼吸を置いてことさら朗らかに話しかけた。
ワイミーの不自然な明るさに戸惑うような表情を浮かべ、俯き、ポツリとLは答えた。
「……キラは日本にいる」
「日本人でしょうか?」
「…そこまでは」
濡れたように艶やかな黒髪のしたで、灰色の頭脳をめまぐるしく回転させながら、探偵は表面ばかりは悠揚として結論を先送りにした。が、しかし確立は高いだろうと述べた。
「キラは自分を優れた人間だと考えている。そして自分以外の人間を自らの物差しで測り、…犯罪を犯した者、悪と判ずる者を片端からのべつ幕なしに消し去ろうとしている。浄化だ。まるで新世界を創ろうとでもいうかの如き、傲慢さで」
「……」
「”主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった”」
Lがふいにぼそぼそと記憶のページをめくり暗唱した。
「”主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する”」
「つまりキラは創世記を綴っていると?」
「意識しているかどうかは別だが、結果は同じ。唯一である神にとってかわろうとする人間など。…しかしそれを根拠に日本人だと断言するのは尚早。いずれにしても日本に拠点を置き、捜査をする必要がある」
「ご出立は」
「早ければ一週間後に。この件に関しては私もICPOに手を借りなければならない。しかし彼らの動き出しは遅い。まだしばらく先のことだろう」
「成程」
苦笑したワイミーを無表情で一瞥し、猫背の探偵はジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま寄りかかった扉から身を離した。そのまま無言で、現れたと同じ気配の無さでふらふらと廊下の向こうへ消えて行く。
唐突なようだが、それはLが言いたいことを言い終えたということだ。不躾な主をわずかな時間だけ見送り、ワイミーは踵を返した。足早に歩きながら携帯電話の短縮を押し、たったいまからこの電話の通信契約は無効となるよう手続きをした。


…実業家の愛娘が誘拐され、しかし無事に保護されたという記事がタブロイド誌の一面を飾ったのはそれから二日後のことだった。
ワイミーが管理する偽名口座に相当額の支払いが振り込まれたのは、その翌日。
それからしばらく後、経済界の重鎮を集めたレセプションパーティで、例の実業家と再会したワイミーは、ワタリという仲介役に対する最大級の悪態と、ドヌーブという金には汚いが腕は確かな探偵に対する最大級の称賛を同時に聞かされる羽目となった。


神様キラサマ神様キラサマ、お願いします。
わたしの大切なひとり娘の、心臓を抉った犯人を裁いて下さい。
わたしの大切なひとり娘の、心臓を抉った犯人を裁いて下さい。
あなたが本当に神様なら。
居場所のわからぬあの犯人を裁くことも、きっとできることでしょう?
お願い、お願い、神様キラサマ


世界に、怨嗟の込められた祈りはやまない。

ゆえに探偵は動く。