ひかりのしずく



瞼のむこうでなにかがチカチカと点滅している。
ん…、と顔をしかめて目をひらくと、そこは大きく枝を伸ばした大樹の根元で、仰向けに横たわった僕の目に、揺れる梢の木漏れ日がきらきらとひかって見えた。
まぶしさが網膜を刺激するので腕を翳して遮ろうとしたのだけれど、なぜか腕は鉛の重石が付いたようにピクリとも動かない。
どうして、僕の身体は、僕の意志に従わないのだろう。
不快に眉を顰めるけれど僕の理解の埒外で、ただ美しい光ばかりがチカチカと瞬く。

身体にしびれるような違和感がある。うまく腕を動かせないのはそのためでもあるようだ。目を眇め、もう一度力を込めてから諦めた。全身を脱力してゆっくりと閉じた。倦んだ溜息を吐く。
喉に粘土を押し込まれたような重苦しい閉塞感が胸を塞いでいる。そのくせ、胸奥は奇妙にすーすーと空々しく、ひどく不快だ。
そして世界はとても静かだった。
街の喧騒も鳥の鳴き声も風に揺れる葉のかすれる音さえも聞こえなかった。何もかもが消失したような静寂の中で、「どうして僕はここにいるのだろう?」と云う当たりまえの疑問が浮かぶ。僕はどうしていたのだろう。
だってらしくもないじゃないか。
(まるで…)
こんな。
死んだように。
地に、仰向けに倒れているなんて。


(あ、)
死という単語が連鎖的に忌々しい感情の残滓を引きずり出す。
ざらりと砂のような触感で意識をこすり、スクリューのように逆回転をして遠ざかった記憶が遡る。
── そうだ僕はたしかYB倉庫で。
そう思ったとき、
僕に降りそそいだ声があった。

「眠っているんですか、月くん」
……え?
心臓が止まるかと思った。
懐かしい声。
まさか。
と目をひらく。そこには僕の顔をのぞきこんでいる黒い影がある。目が合う。
驚きに息が詰まる。
どうして。
おまえが、
「もしかして体調が悪いんですか」
(…どうして)
「大丈夫、ですか。月くん」
僕の動揺に気付かぬまま、感情の読めない大きな黒い目がじっと僕を見つめてくる。ああ、そうだ。この目が。
(……L)
「はい」
返事をする。まるで僕の心のなかの呼びかけが届いたように。そして相変わらずの酷い猫背でポケットに片手を入れたまま、こちらをじっと見つめる。
「月くん」
Lが、僕の名を呼ぶ。
「月くん」
ことばすら失くした僕を不思議そうに見つめる。
そして、まあいいかといった表情をして、目元を緩めた。
「お久しぶりです、月くん」
「……」
「また会えましたね」
Lは無邪気な顔でわらった。




える。

える。

「月くん?」
「……L」
えるという名が音になる。
この世のはじまりのアルファベット。
三回呼びかけると祈りになる。
僕の声はわずかに震えていた。
はい、と答えてLがちいさく笑う。
「月くん、とても会いたかったです」
「……っ」
そのとき、そう言われたとき、僕は、なぜか泣きたくなった。
会いたかった。胸を塞いでいた闇が溶け、内側から熱い感情が溢れだした。
正体はわからない。
理由もわからない。
ただ胸が震えていた。微笑んで僕を見つめる、Lの顔を見た途端、どうしようもなく堪えきれず、涙が、僕の目じりを濡らした。
── どうして泣くんですか?」
Lがきょとんと目を丸くする。人さし指をくちびるにちょこんと乗せる。相変わらずの悪癖だった。僕は笑う。おまえのそのおかしな癖は、死んでも治らないんだな。
(……そうだ)
そうなのだ。
Lは死んだ。
そして僕も……死んだのだ。
鋭い光が頭上から落ちてくるように、ひとつの事実を思い出す。
騙された。リュークはどうやら嘘を付いたらしい。


リュークに騙されたことが悔しいと少しだけおもった。
しかしそんなことはすぐにどうでも良くなった。
僕は腕を動かすことができない。
だからあふれる涙を拭うこともできない。
流れ出すに任せていたら、ふいにLがしゃがみこんで腕を伸ばして無造作に長袖のTシャツのそで口で僕の頬をぬぐった。
乱雑なやり方に、痛いよと文句を言うと、Lはきょとんとして小首をかしげる。
すみませんと普通の声でつぶやく。僕は涙目で苦笑する。わかっているのか、いないのか。
「月くん、あの、…もしかして起き上がれないんですか?」
「ん」
「だって汚れますよ、そんなところで寝ていたら」
「うん。根が生えたように、動けない」
「ちょっと試していいですか」
「え?」
聞き返す暇もなく、Lは月の手首を掴み、ひょいと立ち上がる。
僕はおどろく。
腕があっけなく持ち上がった。のみならずそのまま握力すらも取り戻し、手首を掴むLの手首を逆に握り返すこともできたのだ。
しかしそこからは駄目だった。
Lが幾ら力を込めて引っ張ろうとも、背中と地面の間に接着剤でも付いているかのように、僕の身体は地にへばりついたまま離れない。
見た目の華奢な印象からは想像もできないほど腕力のあるLに散々なくらい腕を引っ張られ、先に音をあげたのは、僕の方だった。
「もう、いいよっ。腕が痛いから止めてくれ、Lっ」
「はあ」
いきなりぱっと手を離すから僕の腕は落下する。
手首は指の形に赤くなりそうだった。足を踏ん張り全身で引き上げていたくせに汗もほとんどかかないLが、困りましたねとやはり普通の声で呟く。
「どうしましょう」
「どうしようと言われても」
「月くん、何か思い残すことでもあるんですか?」
「え?」
「だって起き上がれないから」
「それは…」
言いかけて、ふとLを見上げた。
黒い目がじっと僕を見つめている。
なんだ、こいつは。
始めから分かっていたのか。僕の手に拳銃の傷はない。しかし痛みの記憶をたどるように自分の手首をさすりながら僕はため息をつく。
「死にたくなかったんだ、僕は」
告げると、Lは当たり前の顔をしてうなずく。
「はい。死にたい人間はそうそういませんから」
「そうだけど」
「ですが死神に殺されてしまいました」
「リューク…」
「ノートに名前を書かれて。私と同じですね」
「僕は、おまえの名をレムに書かせた」
「そしてもう一匹の死神に、── リュークさんに、あなたは名前を書かれた」
あっけらかんと言いのけられ、そうしてみれば事実はただ事実として存在するばかりの代物にも思えた。
「はは、そうだね」
軽く笑う。
僕を地に縛り付けていた呪いが、ふと弱まり、手足が軽くなった気がした。

僕は聞いてみる。
「知っているか、L」
「はい?」
「人間は死んだら、無になるんじゃなかったのか?」
「無。ですよ」
「え、でもおまえは」
「そうですね、残っています。だから、死は、どうやらそれだけではなさそうです」
Lはあさっての方向を見上げ、考えるような素振りを見せながら続けた。
「おそらく死神の言うことに嘘は無い。いずれ無になる。
しかし私や月くんのように、もしかしたら残ってしまうものがあるのかもしれませんね。
言い換えれば、死とともに、すべてが消失するのも不思議だということです。肉体の消失とともに、生前のわたしたち自身ですら持て余すことのあった強い感情が、あっけなく完璧に消え去るというのも理解し難い話です。だから恐らくは」
と途中でことばを切り、Lはじろりと僕を睨んだ。
「それにしたって、月くんの怨念は残りすぎですね」
「怨念だなんて、ひどいな」
「起きられないくせに」
ああ、そうか。
この重みは地上への執着なのか。
返答に詰まってことばをさがす僕を見て、Lはさも愉快だという表情をして指をくちにふくんだ。
「月くんは感情が重過ぎます。残りすぎです。しかし、それは月くんらしいですね。私は、早々に無になってしまっても良かったんです」
「はは、Lらしい発言だな」
「しかし、ひとつだけ、心残りになることが言えずじまいでした」
「なに? 僕に『おまえはキラだ』って言いたかった?」
揶揄すると、Lは、違います、そんなことは死ぬと同時にどうでもよくなりましたと笑った。
Lにとって、キラという存在はすでに『無』になっていた。すでに昇華されていた。
Lらしいなと僕は思う。
「でもですね」
と言って、Lはちょっとばかり茶目っけのある表情で、にんまりと笑みを浮かべる。
「これ、言っても笑わないでくださいよ。月くん」
「なんで、もう笑っているの」
「だって可笑しいんです、どうしてなんでしょうか」
「だからなに?」
「私は月くんが好きなんです」
え?
Lが告げたその瞬間、は?という気持ちで、おもわずLを凝視した。
目が合うとLは困ったように笑い、また、どうしましょうと呟いた。
『生前のわたしたち自身ですら持て余すことのあった強い感情が、あっけなく完璧に消え去るというのも理解し難い話です』
さっき聞いたばかりのセリフが耳の奥でリフレインして、僕は、その時ようやく無の本当の意味を理解する。


そうか、それが無か。



木漏れ日がきらきらと瞬いている。


「ずっと、月くんが好きでした。あのときは言えませんでした。私はLだからしかたありません。そして月くんもキラだから同じでした。それでも好きでした。言えなかった、そのことだけが心残りで、だからここにいました」

「……」
「待ちくたびれましたよ。月くん」
「……」
「言うことができて、良かった。── 好きです」
「……」
「好きです」

Lの声からひかりがあふれる。

「月くんが好きです」

僕も好きだ。
こころの中で呟く。
すっと胸が軽くなり、そしてまた目頭が熱くなった。
ああそうだ。それが本心だった。嘘じゃなかった。
Lがずっと好きだったのだ。
たとえ僕を死刑台に送る男だったとしても。
僕が殺さなくてはいけない人間でも。
そこにわずかな躊躇も存在しなかったとしても。


僕は身を起こす。
Lが目を丸くする。
「……起きることができましたね」
「はは、そうだね」
Lが手を伸ばしてくる。その手につかまり立ち上がる。
言わなくてはいけない。
愛を告げるべき人へ。
「僕も好きだ、L」
Lがにっこりと笑う。
「はい。ありがとうございます」
「本当に」
「はい。そうですね。私も同じです」
「好きだよ」
口にする。
それだけで、
まるで呪縛がひとつ解かれたように、ふわりと身体が軽くなる。
「ずっと、ずっと好きだった」
ことばが沁み込む。
こころがひかりにとけてゆく。
肉体は火に焼かれ灰となり、風に舞って大気にとける。こころは想いに癒され、ひかりになる。

そのために。

Lはここで待っていたのだ。
 
ずっと待っていた。  


僕を無へと還すために。








「好きだよ」
「はい」
「Lが好きだ」
「はい。しかし困りました」
「なんで?」
「なんだか嬉しくて、私はこのまま成仏してしまいそうです。お先に失礼してもいいですか」
「え?」
無邪気な顔をしてなんてことを言うんだ、こいつは。
「それは待って。僕はまだ来たばかりだ」 
「いま、とても気持ちがいいんです」
「でも僕は」
「私がいないと寂しいですか?」
「……おい」
「ずっとさみしかったですか?」
「……」
「私はさみしかったし、退屈でした」
「……」
「好きです」
「……」
「月くん。月くん。月くん」
「……なに?」
三回名を呼ばれる。
見つめると、好物の甘味をくちに運ぶときと同じようにうれしそうな顔でLが笑った。
「また、会えてよかったです」
「それは、」
「ライトくん」
「……僕も」
Lが笑う。
そして空を見上げる。
僕たちは、大きく枝を伸ばした大樹の根元で手をつないで立っている。
木漏れ日がきらきらと雨のように降りそそぐ。なんて奇麗な光景だ。足元の明滅はまるで光が地に吸い込まれていくようだ。絶えず落ちてゆく。

この輝きが、いつか僕らの地上に落ちるとき。

届くとき。
幾千、幾億のひかりの粒子のそのなかに。
僕らの魂は溶けているだろうか。

無へと還った愛する気持ちは、僕らの大切な人たちを包むだろうか。
ここで好きだと呟いた、一粒が、溶けて地上に降るだろうか。

ひかりのなまえの雫のように。
そうなるように。


ライトくん。


ん?


好きです。


ん、僕も好きだ。


また会えてよかったです。


うん、また会えてよかった。



いっしょにいましょう。


うん。






ライトくん












ひかりのしずく




-fin-



 ...fin...