あと十分三十一秒、お待ちください。
竜崎がキッチンに立っている。
立っているばかりか、ミサの愛用の白いふりふりのエプロンを着て、お菓子作り──ケーキ作りなんぞをしている。
木目調のデザインのシステムキッチン。
カウンターの前に立ち、いつもの猫背で植物性生クリームのパックを開き、だばだばと大きめのボウルに注ぎ込んでいる。
いつもの、あの手つきだ。
いまにも紙パックを落っことしそうだ。
危なっかしいことこの上ない。
月は、内心、はらはらしながら、部屋の中央のイタリア製テーブルのうえに片手で頬づえをついて、竜崎を眺めていた。
その表情は、生まれてはじめて台所に立つ、小学生の息子を見守る、母親のようである。
だって竜崎が、まるで似合わないエプロンを腰に巻き、まったく慣れない手つきでケーキを作り、それを月のためだと言い張ってきかないのだから、
もう月としては、あきれるやら驚くやらで苦笑いを浮かべるしかない。
閉ざされたカーテンの外はすでに夕闇が落ちている。
昼の陽射しの残滓が、部屋に満ちて仄かに温かい。
今日と云う、十月三十一日は、すばらしい秋晴れの一日だった。
そして明日も晴れるというニュースの予報である。しかしおそらく予報は大きくはずれ、天気は急変するだろう。季節外れの低気圧が大雨と暴風をひきつれて、日本列島に急上陸する違いない。
なぜなら、食べることの専門家のような甘党の大食漢が、月のためにケーキ作りをしている。
── ありえないことだ!
これは天変地異の前触れだろうか?
はたまた”キラ社会の崩壊”の第一歩に違いない。
…… と、大袈裟な独り芝居に近いジョークを胸のうちで呟いて、月はこっそりと吹き出した。
まったく僕の方こそありえない。
こんなくだらない冗談を思ってしまうなんて。
どうやら竜崎のお手製ケーキが楽しみで少し浮かれているようだと自己を分析する。
馬鹿馬鹿しいと照れる気持ちを笑みに溶かして、からかう口調でLに訊ねる。
「竜崎、待ちくたびれたよ。まだ出来ないのか?」
エプロンを掛けている痩躯の黒髪が揺れて、すぐそばの棚の、キッチンタイマーを見る。
デジタル表示は「10」と「31」の文字。
それが残り時間だ。
「もう少しです」
顔半分で月を振り返り、Lは、いつもの抑揚のない声でこたえた。
「あと十分三十一秒、お待ちください」
竜崎が、月と弥が一緒に暮らしているマンションを訪ねてきて「キッチンを貸して下さい、ケーキを作ってプレゼントします」と玄関先で言いだしたとき、月はとうとう、自分は狂ってしまったのだと思った。
目の下に黒い隈、血色の悪い白い肌、わずかに笑みを湛えたくちびるへ親指を押しつけて、つややかな固い爪を子供のようにしゃぶりながら、Lは、玄関口で断定的に言った。
「私の手作りのケーキです。月くん、食べたいでしょう?」
「……いや、別に」
「そうですか、それは残念ですが、まあ、キッチンぐらい、借りてもいいですよね。ちょっと借ります」
「……」
なんという横暴。
月は唖然と言葉を失った。
幸か不幸かミサは遠方でのロケ仕事で不在だったので、月の許可も得ず、室内に上がり込んできたLを見つけた彼女が
ヒステリーを起こす可能性は零だったが、月は開いた口がふさがらない状態で、月の脇をすり抜けてぺたぺたと廊下の奥へ歩む痩躯を見送ってから、はたと我に返り、あわてて追いかけた。
「待て、待て!」
「いいところに住んでますねえ」
まったく心のこもっていない白々しい感想を述べ、Lは、きょろりとあたりを見回し、オープンキッチンへと入っていく。ダイニングとリビング、そしてキッチンが一体となった造りなのだ。
「ちょっと待って。竜崎」
勝手に戸棚をあさり始めたLの肩を掴み、振り向かせ、月は声を低くした。
「なんのつもりだ」
Lは無表情に振り向いて、脈絡なくこたえる。
「その呼び方、久しぶりですね」
「おい」
「もう一回、呼んでください。『竜崎』って」
「……馬鹿馬鹿しいよ、L」
Lじゃなくて、竜崎って言って下さいよ、と、まるで甘えるように口を尖らせる。
月が相手にしてくれないとわかると、不満げに黒い目を細くした。
「さきほど言ったとおり、私はケーキを作りに来たんです」
「何で。そんなことを」
「月くんに食べさせてあげたいんです。美味しい、手作りを」
「……」
「月くんへのプレゼントですよ」
「……本気?」
「マジ、です」
嘘だろ。
月は呻いた。
「マジ、です」
Lが繰り返す。
マジ?
「だって今日は私の誕生日なんです。この程度の願いをきいてくれてもいいでしょう?」
そうして結局、押し切られる形でLの提言を受け入れて、月は渋々とダイニングテーブルの椅子に腰かけることになった。
そこでおとなしくしていてください、としつこく念を押されたのだ。あんまりにもしつこく、手を出さないでください、と言われ、
もし横からうるさくしたら塩と砂糖をわざと間違えて入れますよ、と恫喝されて反駁する気も失せた。
Lは手始めに、キッチンの物品の在り処を確認するために、あちこちの戸棚を開け閉めし始めた。
砂糖や塩や小麦粉などはここ。
料理器具はまとめてここ。
そうこうしているとき、ふと、丁寧に畳まれたエプロンを見つけて、しゃぶっていた指でそれを広げ、うれしそうに自分の腰に巻き付けた。
細い腰にまきつけられたフリル付きの華奢なデザインのエプロン。
不器用な指先でなんとか蝶々に結び止めて、にまっと笑う。
「似合いますか?」
似合っている、似合っていない、以前も問題だ。
不気味すぎた。
長身の骨っぽい痩躯のどこからどうみても男らしい不気味な男がメルヘンな可愛らしいエプロンを着たところで似合うはずもなく、なのに、当の本人がご満悦のようすなので、月はたまらず吹き出してしまった。
無意味に警戒することはない。
Lはあいかわらず甘党で、今日はただのLなのだ。
そう思ったら肩の力が抜けた。
テーブルの下で足を組んで、頬づえをつく。
「わかった。竜崎」
月は、少し挑発的な笑みを浮かべてやった。
「お手並み拝見してやるよ」
卵は共立て。
卵黄と卵白をそれぞれのボウルに入れて攪拌する、別立ての方がしっとりとしたスポンジ生地になるのだが、
竜崎にはそれほどマメな性質ではないらしい。
砂糖を分量よりも、おそらく、わざと、多めに入れて、電動の泡立て器をつかんでスイッチを入れる。
ボウルの中央にそれを立てると、ガガガっと嫌な音がして、黄色い飛沫が飛び散った。
ビーター部分が底にぶつかってしまったのだ。
エプロンやシンクはもとより、手首や腕まで汚れてしまい後始末が大変そうだったが、本人は気にした様子もなく(むしろ嬉しそうに)手首の汚れを長い舌で舐めている。
月は、苦笑して、手近なところに置いてあった台布巾を手にして立ち上がる。
「使う?」
ぬるま湯で濡らしてよく絞り、差し出すが、指に舌を這わせながら、Lは、目をこちらに向けただけだった。
「卵のなまの味って平気? ちょっと生臭くない?」
「加工するまえのケーキの味です。ケーキも、卵も、どっちも美味です」
「ふうん。そうかな」
「はい」
うなずきながら、薄い舌でねっとりと手をなめあげて、それでおしまい。
渡せなかった布巾をカウンターの隅に置き、月は再び椅子に戻った。
次に、Lは、泡立てた卵の中へ、粉を振い入れた。トントンと叩いて、空気をたくさん孕ませながら少しずつ粉を落とす。
それからゴムべらで奥底から掬うように混ぜて、粉けをなくしていく。ゆっくりと、まぜるほどにつややかさを増していく生地に、Lは目を輝かせ、高く掲げたゴムべらからタラーリと落ちていくところへ、鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけた。
「きれいな色です」
嬉しそうに親指をしゃぶる。とろとろに溶けた小麦粉と卵は金糸のように長く細くかがやく。
「そろそろ、ですかねえ。月くん?」
同意を求められて、月は笑いながら頷いた。
「うん、そろそろだな」
「型にいれて焼かなくちゃいけませんね」
「うん、そうだね」
ケーキの形にしなければ、ケーキじゃないよね。
丸い型に紙を敷いてバターを塗って、生地を流し、天板に乗せてオーブンに入れたのが二十分とちょっと前。キッチンの下のオーブンが赤々と輝いている。さきほどからスポンジ生地の焼ける、いい香りが漂いはじめている。
ようやく電動の泡立て器の使い方にも慣れて、楽しげにぐるぐるとやっていたLは、攪拌のスピードを一段階ずつ落としながらゆっくりと器具を停止させた。引き抜けば、ふたつの生クリームのツノが立ち、Lは満足そうにそれを指ですくって口に運んだ。
「美味しいです」
得意げに、にんまりする。
「スポンジの方もそろそろ焼きあがりそうだな」
「はい」
キッチンタイマーのデジタル表示は、あと三十秒を切っていた。
カウントダウン。
「二十四、二十三、二十二……」
呟きながら大皿を用意する。
ワイヤーのケーキクーラーの上にペーパーを広げて、ブタの形をしたオーブンミトンを両手にはめて、取っ手を掴んでレンジの前に座り込む。「気が早いなあ」と
月が揶揄すると、Lは「だってあと十八秒です」とくちびるを尖らせた。
待ちきれない様子でオーブンのスイッチに手をかける。
「十、九、八、七……」
Lの顔がオーブンの熱を映して、仄かなオレンジ色になる。甘く焼ける匂いがいっそう強くなる。
「三、二、一」
零。
呟くと同時に、カチリと炎を止めた。
同時に、ピピピっとタイマーが鳴り始めるが、Lは見向きもしない。訴えを無視されて拗ねてしまったのか、タイマーはほどなく静かになった。
「よいしょ」
と言いながら、おぼつかない手つきで天板を挟んで引出し、こんがりときつね色に焼きあがったケーキを恭しい手つきでクーラーのうえに乗せたLは、頬づえをついたまま笑って眺めていた月へ、少しばかり勝ち誇ったような笑みを見せた。
「できました」
「ああ、うん。よくできました」
「型から外して下さい。月くん」
「え、僕が?」
「私は熱いのが苦手です」
「……最後まで自分でやれよ」
「月くんの方が器用です。お願いします」
これだから竜崎は……と、ぶつぶつ文句を言いつつも、月は立ち上がり、Lの隣に立った。ブタのミトンを受け取って両手に嵌めると、Lは涎を垂らしそうな顔つきで指を口元にあてた。
「はやく、はやく。月くん」
「わかったから。急かすな」
金属の型の底をゆっくりと押せば、すぽんと型紙に包まれたスポンジ生地が抜け落ちる。型紙を剥がしていけば、現れるのは黄金色に輝くケーキ台。
「ああ、いい匂いですね」
「生クリームはどうする?」
「各自、好みでディップしませんか?」
「要するにデコレーションできるぐらいスポンジが冷めるまで、待ちきれないんだな」
「ご明察です」
身をかがめて、犬のようにくんくんと鼻を鳴らすLに目線を投げて、おとなしくしてろ、と短く告げれば、はぁいと甘えた口調で素直な返事をして、Lは半歩後ろに下がった。そんなふうに素直すぎるLの様子が珍しくて、月は思わず声を立てて笑いながら手際よくケーキを切り分けた。
手のひらサイズの小皿に乗せて、ホイップクリームを多めに添える。
紅茶をいれて、椅子に足をあげて座り込んだLの前に置くと、まちかねたように、Lはフォークを掴んだ。
「さあ、月くんもどうぞ召し上がれ」
「それは僕のセリフだ」
「どうでもいいじゃないですか」
「いや、よくない」
竜崎がぱちんと両手を合わせる。
いただきます。
大地に恵みに感謝して、ケーキをフォークで切り崩す。焼きたてのケーキからはふわりと湯気が立ちあがる。あまく香しい匂い。断面のきめ細かいスポンジ生地の美しさに、案外、竜崎もやるじゃないかと内心で感嘆しつつ、月はケーキをフォークで口に運んだ。
「!」
口にして、思わず目を見開いた。
呑みこみがたい味わいに、月はくちもとに手をあてた。まずはじめに舌を刺激した、それは、塩の塊のような味だったのだ。
「なにこれ。……しょっぱい」
説明を求めて正面に目を向けると、Lは無表情に、ぽっかりと深い穴のような黒い目をして、月をじっと見つめていた。
ケーキには一切手をつけていなかった。
「……どうしたんだ、竜ざ」
短く瞠目した月は、そこで気づいてはっと息を詰めた。
ケーキに視線を落とす。甘い香りのする手作りのケーキ。
竜崎からいつも香っている匂い。
心臓が不自然に鳴った。
──まさか。
そうではない。
例えばこれは、毒ではなくて……。
深呼吸をして口に含んだものをゆっくりゆっくり咀嚼した。
ケーキはまるで遅行性の刺激物が仕込まれていたように、あとから甘味が滲んできた。
丁寧にフィークで切り崩しながら半分ほど食べたところで、紅茶を飲んだ。
温かい紅茶とケーキが一緒になって喉を通り、胃に落ちる。
月はふうっと溜め息をついた。
「……もしかして、本気で、塩と砂糖を間違えたのか?」
「いいえ」
Lは首を振って、紅茶に角砂糖を落とした。
ティスプーンで琥珀の水面をゆっくりと掻き混ぜる。
「そのケーキ、不味かったですか?」
「いや。……不味いわけじゃなくて」
「口に合わなかったようですね。仕方無いんです」
「ああ、そうだね」
月は微笑んだ。
”仕方無い”
多分、そうなんだろうと思った。
仕方無いのだ。
Lは、かちゃんと小さな音を立てて、ティスプーンをソーサに戻した。
謎の答えを告げる。
「だってこのケーキには、あなたが殺した私の魂を砕いて、振りかけてあるんですから」
「……ああ」
毒よりも酷い。
月の記憶の中に、篩に掛けられて空気を孕みながらさらさらと落とされた、小麦粉の粒子が、蘇った。
あのキラキラした粒子のなかに、Lの魂が混ざっていたのだ。
「そうだったんだ」
苦笑する。
「はい」
それを見て、Lも笑う。
温かいケーキをまた一口、食べる。
二口目は、例えようもないほど甘かった。
やわらかい生地。
とろけるようなホイップクリーム。
竜崎の手作りケーキは、甘くて甘くて、ほろ苦い。
「……竜崎」
最後のひとかけらまで食べつくし、目線を上げるとLは消えていた。
バニラの香りだけが残っていた。
空っぽの空間に対して、月は尋ねる。
「L。おまえはいま、どこの世界にいる?」
虚空はただ甘く香る。
『月くん。あなたこそ、いまどこの世界にいるんですか?』
月はしばらくして黙ってケーキをまた切り分けた。
フォークで刺して口に運びかけたが、それ以上食べることはできなかった。
やおらこみあげてきた激しい感情をがしゃっと皿に叩きつけて、テーブルの上に突っ伏した。
頭の中がぐしゃぐしゃになって、L、という単語だけが木霊した。
涙は出なかった。
ケーキの切り分けを月くんに託したのは、迂闊でした。
私も詰めが甘かったんですね。
ちゃんと最後まで調理しなくてはいけません。
そうそう、知ってますか、月くん。
死者の食べ物を口にしたら、もう二度とこの世には戻れないんですよ。
これは神代の頃から言い伝えです。
私の魂のケーキを口にしたあなたは、もう半分以上、こちら側の人間なのかもしれませんね……
fin