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『悪癖』 |
講義がおわり、学生たちはざわめき、群れをなして教室から去ろうとしていた。戸口のまえに列ができ、まるで民族移動のようだなと思いながら僕も立ちあがる。次のコマは空白だった。そういえば先週借りたジュリストの返却日が近い。図書館に行こう。 両脚が床に固定された椅子と机のあいだをよこに抜け、通路に出た。 そのまま数歩あるきかけ、椅子の隣に例の格好でうずくまったままの、黒髪の男を振り返る。 「帰らないのか?」 「……」 黒い目線が揺れてこちらを見る。 僕のかおを見つめ、ゆらりと立ち上がる。軽い調子で椅子から飛び降りる。まるでネコのような動物じみた動きだ。そうして僕と対面する位置に立ち、気だるげに猫背をまるめて視線を落としたあと、ゆっくりと顔をあげて僕を見る。 親指を口の中にいれてしゃぶっている。 いつもながらの悪癖だ。 僕の前だけでなく、大学内であっても止める気はないらしい。しつこく指を舐っている。 唾液にぬれた唇がわずかに捲くれあがる。甘そうな赤い口内が見えている。頬のわずかな動きだけでも想像できてしまう。硬い歯で親指の平たく薄い肉を噛み、ぬるぬるとした舌先で指の表皮をこする、という口の中の舌の動き。 だってそれは僕にとって既知の、舌のうごきだから。 「……」 流河が、また僕の顔を見る。 視線を下方におとし、もういちど僕の顔を見る。指をしゃぶったまま。 上目遣いにもういちど、僕を見る。 クローズアップされる。 くちびる。舌。 ふいに単語が脳に浮かびあがる。 ──口唇期? いつのまにかふたりきり、教室に取り残された。 あけっぱなしの戸口のむこうから遠く、学生の笑い声だけが響いて聞こえる。 「…帰らないのか?」 おなじことばを二度繰り返す。 「………」 こたえは無い。 そうなると僕の質問は確認の意味に変化する。 (帰る気はない) (そうではなく…) …そう、ではなく? 『口唇期』 急速に湧きあがる情動のような、無意識に引き起こされる咄嗟の行為のような、それはときおり自分の判断であるはずなのに、思いがけず衝動的だ。 こいつに係わるとロクなことがない。挑発されて高揚する。熱くなる。 僕の悪癖だろうか。 流河の手首をいきなり掴んだ。 驚いて引っ込もうとする細い手首を強引にひいた。 「っ」 僕は、引き寄せた手首をつかんだままわずかに首を傾け、口許に寄せ、唾液に濡れたゆびさきをきつく吸って、ぎざぎざの爪をぺろりと舐めた。 流河がつい数秒前まで口内に含んでいた指先は、温められて妙になまぬるかった。それを口の中で丹念に舐める。からだの芯が疼く。僕は知ってしまった。この男に覚えこまされてしまった。巧妙な舌の悪戯のせいで背筋をかけあがる快感。 細すぎる手首を、固く握った。僕の指に、流河の緊張が伝わってくる。なんだか可笑しかった。だって挑発したのは流河のほうなのに。なぜおまえがそんなふうに恥ずかしがるんだ。だからしゃぶりながら、ついさっきの流河と同じように上目遣いに見つめてやった。 「……」 目があった瞬間、流河がぱっと瞠目した。 その動揺にこっちまで驚かされ、おなじくらい可笑しかった。 おまえは、自分ばかりがしゃぶっているせいで、される側にまわったときの刺激にてんで慣れていないんだな──。そう思うと何だか痛快な気分ですらあった。 「…帰らないのか?」 流河の指先を口に含んだまま、また繰り返す。 三度目の問いかけは、もう別の意味を孕んでいる。 「では…行きましょうか」 と、流河はこたえた。 ふたりの意見が一致して、僕らがそれから向かったところと言えば──、まあそこはご想像におまかせしよう。ついでにそこでどっちがどっちを口に入れたんだとか、そういったことも含めてすべて、ここではそんな野暮は話さずにいよう。 ああそうだ。ただ今更だけれどひとつだけ付け加えておけば、ついさっきまでの講義は、一般心理学でフロイトの口唇期だったということだ。僕も流河もそんなことに刺激されてしゃぶるものが欲しくなるなんて幼稚であること甚だしいが、でもたまにはいいだろ。たまにはそんなシンプルな刺激が欲しくなってしまう、こともある。 これはただそれだけの話。 |