パラレルワールド:二人が仲良く同居中の世界にて

君が見る風景へ



見慣れた背中まで、あと三メートル。
そこまで迫ったところで、うしろから近づいてきた足音に気付いたらしく、薄っぺらい痩身の猫背が立ち止まって振り返った。
背後から近付いたのがまずかったのだろうか。それとも、もしかしたらもっとずっと前から気付いて警戒していたのかもしれない。 振り返ったLは、デニムのポケットに片手を入れたまま、少し威嚇するようなうわめ遣いで こちらを睨んできた。
が、追いかけてきたのが誰であるのか見定めた途端、黒い目をぱっと開いて飴玉のようにまんまるにした。隈のついた目を瞬かせ、わずかに表情を変化させる。 口元に儚く浮かぶ笑みにも似た口角のゆるみ。
「月くん」
Lがこんな表情をするのは多分、相手が僕だったからだ── と内心こっそり自惚れて、月はLの50センチ手前で足を止めた。
はずんでしまった息を整えようと浅く胸を上下する。
Lがいるだけで、月は胸の奥が焦げるような感情を抱く。自制の効かないこたえを、深呼吸のなかに逃がして、月はLに微笑みかけた。
「よかった。やっと追いついた」

駅の改札を通り抜けたところだった。
夕闇がそろりそろりと帳を下ろし始めていた。
月は、通りのむかいの商店街の明るいアーケードの下をあるく、Lを見つけた。
Lは滅多に外に出ない。必要なものはネットで取り寄せたり、月やワタリに用件を頼んだりする。だから月は最初、その人物が Lだとは思わず、世界にはそっくりな人間が三人いるという俗説があるが、本当だったんだなとぼんやり思いながら財布をカバンに仕舞いこみ、 ── やっぱり、そんなわけない、L以外にありえない、と思い直して顔を上げた。Lのような特異な人間がそうそう存在してたまるものか。
もう一度確認しようと、よくよく目を凝らしたが、Lの姿はすぐに建物の蔭に隠れてしまった。
月は、向こう側へと渡るための横断歩道の、青から赤になったばかりの歩行者用の信号を恨めしく見上げて、肩掛けのカバンを抱え直した。 ふたたび信号の色が変わるのを焦れる思いで待ちつづけ、 変わったと同時に、人の多い駅前通りを小走りに急いだ。


  *    *    *   *


「よかった。やっと追いついた」
Lが、追いかけてくる足音に気付いたのは、振り返る直前のことだった。
警戒しつつ振り返ると、思いがけずそこに月がいた。
「……早かったんですね」
まさかここで会うことになるとは。
大学に行った月の帰宅はもう少し遅くなる想定だったのだ。 この時間帯で出会ったと云うことは、講義の終了後、月がどこにもまったく寄り道せず、学生友達のだれとの会話を楽しむこともせず、 まっすぐに帰路についたことになる。しかもここまでずっと走ってきたのだ。理由は言わずもがなであろう。
月はダッフルコートを羽織り、アイボリーのマフラーを首に巻いていた。そのマフラーの結び目が、几帳面な 月にしてはめずらしく少し崩れていた。おまけに頬がうっすらと桃色に上気して、 いつもは綺麗に梳かれて整っている前髪もくしゃくしゃだった。まったく月らしくない格好だと思って目を瞬かせて見ていたら、 目が合って、刹那の意識が交わり、 ふいに胸の奥をくすぐられたようなむずむずとした感じがした。
「そんなに急いで」
引き絞られたくちびるの端が、我知らず微笑のかたちにほどける。
「だって竜崎を見かけたから。驚いたのは僕の方だよ。おまえが外出するなんて」
「……月くん、ほっぺが林檎みたいですよ」
「ああ、火照ってるのが自分でもわかる」
「マフラーも」
「ん? ああ、本当だ。ほどけちゃった」
「髪もすこし……」
「え。あ、ははっ」
片手を伸ばし、Lは、跳ねた栗毛の髪の先をゆびさきでぎこちなく撫でつけた。Lは器用なほうではないので、結局、 どうにも元通りにならなかったけれど、ぐずぐずにゆるんでしまったマフラーの結び目を整えながら、月が小さくはにかんだ。
身の回りの気遣いが不得手なLに対して、なにくれとなく世話を焼くのは いつも月の方なのだ。なのに今日はいつもとまるで立場が逆で、しかもLは慣れないことに挑戦したため、手元がかぎりなくぎこちなくて 困惑していた。 それがおかしかったのだろう、月の冷たいくらいきれいな容貌はくすぐったさそうに微笑み、赤らんでいた。
「もう大丈夫だから」
月が呟いたのをきっかけに、ふたりは同居するマンションへと歩きだす。
「夕飯のまえにシャワーですね」
「たしかにちょっとね、走ったし」
「そんなに急ぐ必要があったんですか」
「うん。早く会いたかったから」
「……」
あまりにもストレートな言葉にLは内心でぐらりとよろめく。
心のよろいを脱いだこの青年の、なんて潔く素直であることか。
それはLにとって真っ直ぐすぎて、よろめきときめきついでに何度でも恋に落ちそうになってしまうのだ。
「えーと……そうですか。ありがとうございます」
「ん……」
Lの含羞に誘われたらしく、月も照れ笑いを浮かべて目を伏せた。
なにを言えばいいのか途方にくれて、わずかに沈黙したあと、Lは、おもむろに月のコートの袖を掴み、手にした紙袋を差し出した。
「月くん、誕生日。おめでとうございます」
「え?」
おそらく月は、Lが自分用に買ったと商品だと思い込んでいたのだろう。
立ち止まり、振り返った目は驚きに見開かれていた。
「おめでとうございます、月くん」
と、Lが繰り返し、月に渡した。袋を受け取って持ち手を左右にひろげたあと、月はくちびるを、あ、という形にした。 マチの広い光沢ある材質の白い紙袋の中には、ケーキの箱がひとつ入っていた。
バースディケーキだ。
かなり大きいサイズである。
だからLは外へ出たのだ。
月のために、自ら選ぶ必要があったから。
「竜崎」
つぼみのバラが瞬く間に花開いていくように、月の表情が優しく和らいでいく。
それをLは奇跡と遭遇するような愛しい心地で眺める。
「ありがとう。嬉しいよ」
「どういたしまして。月くん。今日、歳がひとつだけ私に追いつきましたね」
「うん。やっと追いついた。でも7歳差は大きい。まだ同じ風景を見ることができる気がしない」
「そうでしょうか?」
月の隣に立ち、月の正面のずっと前方を見つめてからLは小首を傾げた。Lは意識的に月の視線をなぞってみる。 猫背をほんの少しちゃんと伸ばせば、背の高さは月とほぼ同じだ。そうして見る空の色は夕暮れの淡く紫がかった藍色だ。商店街の明かりが輝いて 家路に急ぐ人、夕飯の買い出しに来た人々を出迎えている。普通の人々の、ふつうの生活。おおむね善良で、たまに小賢しく他人を妬んだり競ったりしながらも 、きっと毎日をそれぞれに懸命に生きている、月がかつて犯罪者を手に賭けてでも守ろうとした世界に住む、ふつうの人々の日常がそこにある。
ひとの生活を、幸せを守りたいと願うこころは、月の本当の優しさに根ざしている。それらは、いまはもう記憶の底に沈められてしまった出来事を引き起こした。 昔を想起したLは感慨深げに目を細めた。
いまはただ、しあわせ、と胸をはることができるのだ。
しかしそれはたくさんの犠牲のうえに成り立っている。Lはそれをずっと覚えているだろう。
「ちがうって」
月は、無邪気に、あははと声を出して笑った。
「そういう意味じゃいよ」
冗談とも本気ともつかないLの仕草に頬を緩ませる。
「……あ、というかそもそも今晩、夕飯どうする?」
「それは」
言いかけたとき、道ゆく対向の人とぶつかりそうになって口を噤んだ。
会話が途切れる。
夕刻の商店街のアーケードの人通りは多く、頻繁に人とすれ違う。 ふたりが横に並んでゆっくりと会話をすることは少々難しかった。
Lは月の腕をつかみ、横に引っ張った。
「線路、渡りましょう。向こうの道の方が広い」
「え?」
ちょうど右手の歩行者用信号が点滅しているところだった。
急なことに驚いてバランスを崩した月の身体がLにぶつかる。
しかしLは気にせずぐいぐいと 先に進んでいった。クルマの交通量の多い十字路の横断歩道を渡り、商店と商店のあいだの狭い脇道を抜けて線路沿いの歩道に至る。 ガードレールと線路を囲うフェンスとの間の小道は、人ひとりと半分くらいの幅しかなく、Lが月の腕を離さないので自然と縦にならぶことになる。 そこから数メートル行ったところ、フェンスの切れ目に遮断機の上がった踏切があった。
Lは踏切を渡った。
渡り終えたところで立ち止まり、月の腕を離した。
コートの袖がすこし乱れてしまったので月はそれを正した。
月は、すこし物言いたげな目線でLを見つめた。
このあたりにくると人影もまばらだ。
線路の反対側の道幅は、商店街の歩道よりも断然広い。ただしこっちの道が遠回りになることぐらい、二人ともにわかっていた。
だからLはわざと、こちらへ来たのだ。
「急ぐ必要はありませんね」
「ん、そうだな」
「ゆっくり帰りましょう。話をしながら」
「帰ろう」
それから二人は、ゆっくりと歩きながら夕食の献立を考えたり、 バースディ・ケーキに立てるろうそくの数をちゃんと年齢分にする・しないで意見しあったりして(月はエコロジストだ)、 居住するマンションの側まで歩いて帰った。マンションのフロントにたどり着いたとき、 Lはふいに甘えるように月の手に指をからめた。人目を気にする月は最初驚いて躊躇したようだったが、 ややして意を決してLの手を握り返した。
大切なひとの望みを叶えることは月にとって何よりも喜ばしく、相手がLであれば猶更、 Lの幸せそうな顔を見るために、 慈しみと愛情にこたえることは何よりも自分の誕生日に相応しいことだと思ったのだろう。 自ら決意したくせに夜目にもわかるほど赤くなった月の表情が愛しくて、 Lはことさらゆっくりゆっくりと手をつないだまま、ハッピーバースディを歌いながらマンションへの階段を上った。
幸せな灯りはやがて窓辺にともる。

 Light,
 you should really pace yourself, with love on your birthday.