夜明よあけまえ】


 ある日の夜明けまえのことだった。
 僕が眠りについてからも、尚もベッドの傍らでヨツバの調査資料を読み込んでいた竜崎がようやく眠ることにしたらしく、ごそごそと無遠慮に僕のベッドに潜りこんできて僕の背中にぺたんと張りついたのだけど、 その身体が空調管理の完璧な高級ホテルの一室に居たとは思えないほどひんやりと冷えていたから、僕はおもわず身震いをして訊いてしまった。
「大丈夫?」
 熟睡中に、いきなり竜崎がベッドに入ってきたとしても僕は怒らない。
 竜崎は残酷なまでにストイックな仕事のスタイルを貫いている。それをやり過ぎだと思いつつも、そうまでしなければならない境遇を考えれば、厭わしさや不平よりも心配のほうが先に立つ。 過剰に燃え立つ頭脳を維持するために糖分ばかり摂取してまともな食事をしないことも、ほとんど一切の休眠を取らず集中を持続させることも、それしかやりようがないのだとしたら竜崎の生き様はとても哀しい。
 しかし竜崎は、僕の問いには答えず、僕の体温であたためられたぬくぬくのブランケットを自分の頬まで引き上げてじっと身を硬くするばかりだった。デニムの止め具が、僕の腰に当たって痛いというのに、そういう相手の都合は考えていない。
 むしろ考えないほうがいっそ竜崎らしいと云えようか。
 僕は、竜崎の太股を太股でぎゅっと挟んで、温もりを与えた。 それから胎児のように胸元で屈まっている彼の腕をとって引き寄せ、両手で包み込んだ。 キーボードを叩きつづけて温度を奪われた指先を擦る。骨ばって細い竜崎の指先は、少し力を込めたら折れてしまいそうだった。
「十月だって云うのに今年は随分寒いね」
 背中に息遣いを感じながら、ひとりごとのように言う。
 竜崎は気が向かなければ答えない、まるで気分屋のネコのようだ。僕はそれでも気にしない。こたえないことに苛立って八つ当たりをしたりしない。
 こんなにも芯まで凍えた人間に、一層と冷たいことを言えるわけがない。
「寒いのは嫌いだな」
「………」
「でも寒いと人の温もりが愛しく思える」
「……」
「寒ければ寒いほど。人肌を温かく感じる。誰かがともに居てくれることが嬉しくなる」
「………」
「だからこの冬、竜崎がそばに居てくれるなら、僕はどんなに雪が降ってもかまわないと思うよ」
 と言うと、ふふと微かな笑い声がうしろでした。
「月君。気障過ぎです」
「……うん、僕もそう思った」
 同意すると、また笑い声。ふわりと甘ったるいバニラの吐息が肩にかかり、ぺたりと張り付いている体からすうっと力が抜けた。
「………」
 胸に痛みが走る。
 一層力を込めて指先をこすってやると、竜崎は小さな声で「痛いです」と呟いた。
 この猫背の青年が、ただ寒さに弱くて身を凝らせているわけではないことに、僕は随分前から気付いていた。 がちがちに緊張しているのだ。本当は。与えられたLという役割をまっとうするために、こいつは尋常でないストレスを背負い耐えているのだ。 気だるい服装をまといながら、品のない振る舞いで過剰に糖分を摂取しながら、常に全神経を緊張させて職務に従事している。
 なぜならLの失態は、すぐさま部下の死につながる。
 もしくは自分自身の命を失うことになる。
『失敗は許されない』
 僕にしがみついてくるのは、死と隣り合わせの重責を背負うには細すぎる腕と肩。しかし黒い鏡のように大きな黒い目は、もう幾人もの生死を吸い込んできた。 見た目ほどにヤワではない。本人も納得づくで受け入れている状況と立場だろう。けれど僕の胸には遣り切れなさが去来する。
 ワタリという人物をサポートに持ち、場合によっては父たちのような各国の捜査員の助けを得ることがあったとしても、 竜崎はいつも孤独だ。
「指先、温くなってきた?」
「…はい」
「そう。よかった…」
「……月君」
 甘えるように頬を寄せてくる
 どきりと心臓が鳴り、ふいに頬が熱くなる。
 猜疑心の塊のような男が、キラと疑う相手に対してする振る舞いだとは信じられないかもしれないけれど、 疑惑とは全く別次元のところで、少なくとも彼は僕を信用している。 それは単純な推理の話で、たとえば僕がキラだとしても、自分に疑いがかかるような遣り口ではなく、狡猾に細心の注意を払って竜崎を殺害するだろうということだ。 つまりこんな二人きりの寝室で、とつぜん暴力的な危害を加えることはしないし、そもそもキラはそのような生々しい殺人手法を使わない。 それから多分、僕が少なからず竜崎に情愛を抱いていることも感じて、信じてくれているんだろう。これは希望的観測でしかないけれど。
「……月君」
「ん?」
 ふいに竜崎が身を捩った。
 熱を孕んだ吐息を零し、僕の耳元に口を寄せ、低く耳打ちする。
「固くなっています」
「………」
 僕は羞恥心に二の口がつなげなかった。足を絡ませていたから気付かれてしまった。薄いパジャマの生地では隠しようもなかった。
「さっきまで眠っていたのに。元気ですね」
 太股で僕の股間をゆるやかに押し上げる。品のない揶揄を耳打ちする。
「…竜崎」
 ねっとりと耳殻を裏から舐められる。この野郎…と鳥肌を立たせるそばから、竜崎の細い指先がするりと僕の手から抜け出し、下のほうにまわり陰茎の根元をつかまれる。おもわず拉げた声を漏らした僕の真後ろで、竜崎が唇の端をつりあげた。
 あからさまな挑発に苛立ち、背後から密着して根元を揉み続ける男から身を離した僕は、反転してそのまま竜崎に覆いかぶさった。 黒い蓬髪が枕のうえで好き勝手に散っている。黒髪に彩られた白い貌のなかでは、 ほとんど感情をうつしださない黒い瞳がひたりと僕を見つめている。どんなときでも僕は監視されているのだということを意識せずにはいられない。ただその黒い瞳は、指先をさしこんで地肌に触れながら前髪をかきあげてやると、猫のように細くなった。 ごろごろと喉を鳴らしそうだった。だから本当に喉仏のしこりを指先で撫でてみた。竜崎は小さく笑った。
 いつもならこのまま無言でキスをして、なし崩しでセックスに至る。いつのまにかそれが普通のことになっていて、 おかしな状況だと思わなくも無いけれど、竜崎がそれを許諾するなら僕の方に異存はなかった。 少なくとも僕はこの男に惹かれている。だったら余計なことばは排除すべきかもしれないけれど、ただ今夜は聞いてみたかった。
「竜崎、セックスしてもいい?」
 たとえばそれを『愛してもいい?』と心の中で置き換える。
 僕はおまえを愛してもいい?
 竜崎は、何故いまさらそんなことを聞くのだろうという風に目を瞬かせた。
「はい」
 食事も睡眠もセックスもおかしな状況であれ、もはや日常。それしかできないのだとしたら、それを甘んじて享受するしかない。 きっと竜崎はそう考えている。
 伝わらないもどかしさ。伝えることができないジレンマに脳のどこかが焼けつくように痛んだ。
「…うん」
 僕は、哀しさを微笑に溶かして、ゆっくりと唇を近づけて、竜崎の唇に押し当てた。

 好きだとか愛しているとか口に出して告げたことはないし、そうすべきでもないだろう。 もし僕が告白したとしたら、竜崎はどうするだろうか、と考えないわけでもないが、しかし考えたところで明白な拒絶反応しか予想できない。 竜崎が『L』である限り、キラであるはずの僕を受け入れることはできない。僕の潔白が証明され、キラではないと判明した後でもおそらく同じだ。竜崎は特別な人間を作らない。たとえ僕に想いを寄せたとしても、Lという立場を放棄してまで、恋や情動にすがりついたりはしない。Lとして生きることを選んだときから、 なにものにも揺るがされない決意を持った。その頑なな決意が竜崎をLたらしめている強さだ。 もし彼が僕を愛してくれたとして、僕を死刑台に送ることになったとしても一縷の迷いすら見せないだろう。
 そういう彼を僕はたしかに愛している。