煙草たばこ


 その味が癪に障ったんだ。
 まるで別人とキスしているみたいに感じられたから。
 だからドンと胸板を押しやって遠ざけてやった。
 じゃらりと金属の鎖を揺らしながらよろめいた竜崎は、黒曜石のビー玉のような目を丸くして僕を凝視した。
 その竜崎の目の前で、汚いものにでも触れたみたいに、唇を手の甲でぐいっとぬぐう。
 血色の悪い顔に、ますます驚きの様相がひろがる。
 親指の爪を濡れた唇につよく押し当てる。僕のとつぜんの暴挙が理解できなくて困惑した挙句の幼児性行為。
 そのしぐさにすら僕は情欲を掻き立たされるけれど、今は言わない。

 直前まで僕らはキスをしていた。セックスはまだ始まっていなかった。服も脱いでいなかった。ただキスの途中だった。
 きっかけは「静かですね」という竜崎のセリフだった。
 父や松田たち捜査員は出払っていて、互いに別々のPCモニタ画面を覗き込みながら僕らは二人きりだった。 仕事に集中しているはずだと思っていた竜崎が「静かですね」と呟いて、ホテルのスイートルームに僕らは二人だけ、寝室はすぐ脇だということを僕に意識させた。それが合図だった。
 言われたとたん、僕はもう竜崎とセックスしたくてたまらなくなっていた。 竜崎はそれよりも前から強く意識していたはずだ。そうでなければわざわざ口にする必要もない。静かですね、そうだね、それはつまり乱れた息遣いと泣き声で静寂を壊そうって言うんだろ?

 僕の勝手な思い込みではなく、多分こいつはキスが好きだ。
 キスのあいだは目を閉じると云う礼儀を遵守していた僕は、竜崎の顔を観賞したりはしなかったから、表情自体は分からないけれど、 それでも抱きしめた体から力が抜けていくのをじんわりと心地よく感じていた。 しっとりと生ぬるい唇を舐めあうだけのキスがだんだんと深くなるにつれ、竜崎はチョコレートが真夏の常温に時間をかけてゆっくりと溶けるように脱力していった。 尖らせた舌で口蓋をなぞり、喉の奥まで探るような濃厚なやつをしても、竜崎は抵抗を示さなかった。むしろ深さを求めるように甘い吐息を鼻腔から漏らしていた。
 そんなときにふい打ちで突き飛ばされたら、誰だって腹立たしいだろう。
 竜崎の怒りは尤もなことだ。
 ああ、でも僕にも言い分がある。だって台無しだよどうしてくれるんだよ。
 お前、苦いよ。

「苦いよ」
 文句を言おうとした竜崎の機先を制して告げた。
「…え?」
 竜崎は大きな目をますます広げてきょとんとした。虚を突かれて素の表情が一瞬こぼれた。まるで幼い子供のような顔で、僕はその表情を見ただけですべてを許してしまいたくなったけれど、慌てて頬を引き締めた。ルールを守ってほしいのだ。
「煙草吸っただろ。だから舌が苦いしザラつくんだ。口を漱いでこいよ」
「…ああ」
 ようやく得心がいったという表情を浮かべる。苦い、と言われた舌を突き出して、指でなぞる。その指を舌先でまた舐める。そんなことをしたってわかるはずもない。着色料たっぷりの苺キャンディみたいに真っ赤な舌の味なんて。
「セーラムライトです」
 と、竜崎が可笑しそうに笑った。松田がいつも吸っている銘柄だった。
 わざと。
 口にした。
 …この野郎。
「煙草なんて吸うんだ?」
「いいえ、普段は吸いません。好きではないです。ただ苛々したときに吸うと冷静になれると聞きました。だから少し試してみようかと…」
 言いながら、サイズを間違っているんじゃないかと疑いたくなる、だぼだぼのデニムのポケットからセーラムライトを取り出す。 セラフィンを指先でぎこちなく弾いて中から一本取り出す。
「そういうわけで松田さんのをいただきました。残り二本だからと」
 とっさに手が出た。しかし奪い取ろうとする僕の手の動きをはじめから予測していたように、機敏な動きでひょいとかわされる。
「…竜崎」
 不愉快さに眉をひそめた。
「…捨てろよ」
「折角もらったのに捨てるなんて勿体無い」
 大きな黒い目を細めて、楽しげに竜崎が笑う。
「いいから捨てろ」
「何を怒っているんですか、月君?」
「だから似」
 思わず口からこぼれ出そうになった本心をとっさに呑みこむ。
「…似合わない?」
 ますます愉しげに竜崎は目を輝かせた。
 チ、内心で舌打ち。
 そうだよ似合わないよ。竜崎とキスをしたらキャンディみたいな味がしないと困るんだ。 僕の中ではそう決まっているからだ。どこまで舐めても甘い唾液が滲んでしまう。 そういう定義して遵守してもらわなきゃ嫌なんだ。(そもそも僕以外の他の誰かのせいで苦いキスを味わわされるなんて許さない。)
「知ってるだろ。煙草は身体に悪いんだ」
「月君はまだ未成年ですし、発育に関わるので吸ってはいけない。ですが私はもう大人ですから、たまには良い気分転換になります」
「未成年だろうが成人だろうが同じだろ。喫煙者の肺ガン発生率を知らないのか?」
「私の健康状態はつねに診査され管理されているので、あいにく病魔とは無縁の生活です。それに数年に一本吸うだけでガンを発症するなんて有り得ないですよね?」
「心配してやってるのに、何故素直に受けとらない」
「月君こそ、ずいぶん突っかかる」
「竜ざ」
「もしかして気付いてない?」
「え?」
「それって嫉妬じゃないですか?」
 揶揄する調子で指摘され、カっとなった瞬間、手錠を思いきり引っ張られてつんのめった。急激に肉薄したところ、顎をつかまれ上を向かされ、不意打ちのように唇を押し付けられた。ガチっと歯が鳴った。でもそのキスは一瞬のことで、すぐに突き放されてまたよろめく。
「苦いですか?」
 竜崎が悠然と口元を弛める。意味が分からなかった。
「意味がわからないよ」
 だから思ったとおりのことばで抗議した。
「こういうキスなら苦くないですね?」
「…だからなんだって言うんだ」
「キスは深く情熱的でなければ面白味もありません。でも苦いキスが嫌であれば今日はここまでで終わりにします。とても残念ですが…」
 言いながら赤い舌を突き出して、指先にたっぷりと唾液を絡ませ滴らせ、僕に突き出す。
「それとも私の舌が甘くなるまで、月君が苦味を舐め取ってくれますか?」
「………」
「どうしますか? 止める?」
 呆れ果てるよりも先に頭痛がして、それより先に身体が熱を帯びた。露骨で淫猥。単純だけどいい手だよやられたよ。そうまで誘われて僕が断るはずないと確信している知能犯め。ひたいに手を当ててうんざりとしたポーズを取り、それからおもむろに竜崎を見据えた。
「もう吸うんじゃないぞ」
「嫉妬する月君が見たくなったら吸うかもしれませんね」
 ああ言えばこう言う減らず口。手首をつかんで引き寄せて、髪のなかに手を入れて強引に首を傾けさせると、竜崎のくちびるがかすかに開いた。
 ちらりと覗く、小さな舌。
 僕はそれを吸い取るようにキスをした。その舌は胸やけがしそうなくらい甘かった。


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