喧嘩けんか


 
 眠りの浅瀬で、規則正しく時を刻み続ける秒針の音を聞いた。
 目が覚めて、薄くひらいた目にまず飛び込んできたのは、薄い黄色とオレンジ色の混ざった毛布の端だった。太陽の光をたっぷりと浴びてほかほかとあたたかい毛布、そして白い掛け布団が、私の全身を包み込むように掛けられていた。
 いつの間に、布団を掛けられたのだろうか。そして自分はいつ眠ってしまったのだろうか。夜神が部屋を出て行ったあとの記憶がなかった。全身の末端の神経にまで倦怠感が侵食して、水を吸い易い画用紙に滲んだように意識の輪郭がぼやけている。気を抜くとふたたびまどろみの中に引きずり込まれて立ち上がることができなくなりそうだった。意識的に目を開いて、横臥した体躯の下敷きになっていた右腕を動かした。
「……」
 わずかに眉を顰めた。
 縛められた手首が解放されていたのだ。
 両腕を背後に回したままの体勢で、右手でおのれの左の手首に触れてみる。骨張った手首に巻きついている、ややごわついた感触が指に触れた。包帯のようだった。
 丁寧に止められた布テープの感触を掌に収めて、手をベッドに置き、のろのろと上体を起き上がらせた。
 薄暗い室内。
 閉ざされたカーテンのむこうは夕闇の帳が下りている。
 裸身からするりと落ちる毛布。
 精液と汗にべたついていたはずの素肌はさらりと乾いていた。ああ、これもいつの間に。眠っている間に、夜神が拭い清めてくれたのだろう。
 視線をめぐらせるとベッドのそばの机に、給湯器とタオルとプラスチックのボウル、そして着替えらしき服がきちんと折畳まれて置かれていた。素足をベッドから下ろして立ち上がる。身体のなかの歪な感覚を堪えながら、机の前に立ち、新品のトランクスの包装をビリと開けた。
 衣服を身に着けながらふと目をやると、給湯器の陰にコンビニのビニル袋を見つけた。指を伸ばして、ビニル袋のくちを広げてみると、中にはチョコレートのエクレアと期間限定ではない方のタケノコの山が入っていた。それらは好物であるが食指は動かない。律儀なところは、夜神月らしいと思った。
(夜神は、)
 デニムを穿き、黒いシャツに腕を通す。着終えて、部屋のドアに手をかけた。
(どこに)
 ドアを開き、踏み出した廊下は、室内の温く淀んだ空気と比べるとすこし肌寒かった。
 黄昏の暗闇は、瀟洒な戸建ての家のなかにまで忍び込んでいる。薄暗かった。立ち尽くしたまま思考を巡らせていると、階下から物音がした。どっと沸きあがった笑声はテレビの音だ。その音のうえに食器片付ける音が重なる。夜神の母が帰宅して夕食の準備をしているようだった。彼女とは面識がある。夜神総一郎が倒れたとき、付き添っていた彼女と病室で顔を合わせている。
(幸子さんから、夜神さんに連絡を。そうすればワタリに伝わる)
 階下へと下った。
 階段から見て右手、一階の廊下の手前がキッチンだった。
 階段の柱に手をかけたままキッチンに目を向けると、ドアは開け放たれたままで、制服姿の小柄な少女と目が合った。
 突然階段を下りてきた私の姿を見て、驚いたように目をパチパチと瞬かせた少女は、ぷらぷらと気ままに揺らしていた両足をピタリと止めた。
「あーっ」
 少女が満面の笑みで立ち上がる。
「こんばんは。流河さん!」
「あら」
 パタパタとスリッパの底をはためかせて小さく走ってくる少女のむこうで、テーブルを拭いていたエプロン姿の幸子が振り返る。
「起きたの、流河さん?」
 エプロンの裾で濡れた手を拭きながら歩み寄り、幸子はニコリと優しい微笑を浮かべた。少女は幸子の隣に立ち戻り、にこにこと無邪気な笑顔で私を見つめてくる。
「ちょっと待ってて。ライトを呼ぶわね。リビングにいるから」
「……はい」
 私は小さく肯き、人差し指を口に含んだ。
「ライトー」
「お兄ちゃん、流河さんが起きたよー」
 幸子の呼び声に合わせ、くちのよこに立てた手のひらを寄せて少女も叫ぶ。そうだ、この少女が夜神の妹だ。病室で、夜神粧裕がキラではないかと告げたことを思い出す。しかし実際に逢ってみれば想像した以上に、この少女はキラらしくないと感じた。
「流河?」
 がちゃりと音がして、一階の廊下の奥のドアが開いた。風呂あがりらしく薄茶色の髪をいくぶん湿らせた、パジャマ姿の夜神がリビングから姿を現す。ほっそりとした痩躯が歩み寄るスリッパの音は、猫のようにしずかだった。
「流河、眠って少し落ち着いた?」
 やわらかい声が鼓膜を揺さぶる。
「傷はまだ痛む?」
「……」
 返答をしない私をやわらかい笑みのまま見つめる。
 そしてまるで心からの忠告だとでもいう声音で、夜神は言った。
「これに懲りて、いくら挑発されたとしても、学内で喧嘩だなんて真似は止した方がいい」
「……」
「それくらいわかるだろ、流河」
「流河さん、喧嘩に巻き込まれてしまったんですって? 東応大学の学生さんも、最近の方は怖いのね」
 幸子が困ったような表情で頬に手を寄せた。
 そういうことかと内心で肯く。
 偽装のシナリオは恐らく夜神に都合のいいものだ。喧嘩で傷を負った私を介抱して部屋で休ませた。友人を気遣い労わる、優しい息子を演じるに好都合なストーリは、恐ろしく陳腐だ。
「流河さん、お夕飯を一緒には?」
 と、幸子が訊ねてくる。
「いいえ帰ります」
「あらそう」
「幸子さん。すみませんが、夜神さんに電話をしていただけますか。迎えを寄越すように伝えて下さい」
「え? ええ、いいですよ」
 パタパタとスリッパを鳴らして幸子がキッチンに戻っていく。
 その背中を見送ったあと、夜神は微笑を消し、真面目な顔をした。
「流河。多分おまえは許さないと言うだろう。信じないかもしれない。そう思わないかもしれないけれど、僕は流河に自分の気持ちをちゃんと伝えておきたいんだ。僕に掛かっている疑いを晴らすためにも」
 眉根を寄せ、秀麗な容貌に苦い表情を浮かべる。
 ゆっくりと十数秒、夜神の顔を見つめた。
 黙ったまま睨み合うように向き合う私達を見て、粧裕が不審そうな顔をした。
「流河、僕は」
「夜神君」
 軽く俯き、遮る形で短く返答をした。手首を見せる。
「手当てをしてくださってありがとうございます」
「…それは僕のせいだから」
「まあ、そうですね」
 首肯すると、夜神の妹はくるりと目を丸くした。 兄の友人と云えば、こんなとき謝罪を寛大に許してわらうような虚像ができあがっていたのだろうか。しかし私は夜神の友人ではない。それとも予め兄から説明された事情と、今の会話が一致していないことを不思議に思ったのだろうか。
 夜神は、小首を傾げている粧裕の存在を煩わしく感じたらしい。
「粧裕、むこうに行ってな」
「えー」
 不平の声をあげる妹へ、「いいから、ちょっと重要な話があるからおまえはキッチンに行ってな」と優しい声音でもう一度命じる。えー、と口をへの字に曲げながらも、粧裕はキッチンへ戻っていった。
 そこへ幸子の声が届く。
「流河さん。電話がつながったわよ」
「ありがとうございます」
「十五分後にすぐそこの大通りに車を寄せるから、そこで待っててくださいって。ライトー、流河さんを大通りまで送っていってあげなさい」
「あ、」
「いえ結構です」
「……流河」
 即座にきっぱりと断わった私を、もの言いたげな面持ちで見つめる。
 夜神はしずかに口を開いた。
「今度は、普通に遊びに来いよ。流河」
 空々しい社交辞令に、私は口の端に笑みを浮かべてこたえた。
「そうですね。是非…」




 夜神家を辞して、家の前の一通路を左に折れた。
 待ち合わせの大通りまで、ゆっくりと歩く。
 目線を下にむけたまま、歩き、ふと暗い夕闇の道の遠くに目をむけると、二メートルほど先の電灯の下にちいさな子供が立っていた。
 まぼろしではない存在感。対峙するように立ち尽くす。私を見上げる目は、闇に溶けるほど深く、顔には見覚えがあった。
 ── あれは私。
「………」
 通せんぼをするように両手をひろげたのは、数時間前の記憶だ。
 しかしもう邪魔されることはない。事件は起きてしまった。もう後戻りは叶わないし、私達はつながってしまったのだ。
 ちいさな男の子に対して宥めるようなまなざしを向け、目元を緩め、両手をポケットに押し込む。ゆっくりと歩き出す。 小さな頭部をわきに追い越したあとでふりかえると、幻覚は消えていた。いずれふたたび出会うかもしれないが、夜神との間には もう二度と立つことはないだろう。
 そのまま目線をいましがた出てきたばかりの家宅にむけると、電気の消えた二階のカーテンが左右に大きく開かれていた。 よくよく目を凝らしても、そこに夜神の姿を見つけることはできない。しかし、その部屋に夜神はいるだろう。確信できた。
 しかしもう遅い。何もかも手遅れ。



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