エラルドコイル  

「さっきからずっと名前について考えていたんだ」
「名前?」
「うん。名は人を表すって云うよね」
「……」
「だとしたら複数の名前を持つ人は、いったい何がその人自身なんだろう?」
「……」
「僕たちは教えられた名前しか知らない」
「……」
「Lとかドヌーブとかエラルドコイルとか呼ばれているけれど、竜崎っていうのが僕らの知っている竜崎自身だ。僕は竜崎が『竜崎』と呼ばれているとき、一番しっくりする気がする。本名はきっとまったく違う名前のはずだけれど。だから思ったんだ」
「……」
「もしかしたら偽名にも、その人自身に繋がる深みがあるのかもしれない。本名はひとつしかない自分自身だけれど、偽りの名前であっても付けられたときから、それ自体が存在と意味をもちはじめるんじゃないか、って」
「……」
「だから『エラルドコイル』って良くできた名前だなって思ったんだ」
「…」
「……」
「松田さん?」
「ごめん」
「いえ…」
「なんかね。いまさら感心しちゃった」
「…それ、ミステリー作家名のアナグラムですよね。エラリークイーン、コナンドイル…」
「そう。そうなんだよ」
「……」
「けれどなんとなく響きがこう聞こえないかな?」
松田はそこで短く息を吐いた。

「『エル、何処居る?』」

月は息を呑んで、一瞬何と返すべきか逡巡した。
数時間前に逝去した探偵を悼む松田に対して、その感傷を和ませるようなユーモアを返せないかと考えた。数秒間思慮を巡らして、結局諦めた。松田の心情に歩み寄ろうにも、月には安堵する気持ちしか浮かんでこない。
『死』
『Lの死』
『Lを殺す』
それだけを願い続けてきたのだから。
そして月は今日とうとう願いを成就させたのだから。
月は、自分が浮かれていることを冷静に分析した。こんな日に松田の感傷に気持ちを添わせるなんてできない。
それでも何らかの哀惜を醸し出すことが必要なのだとしたら、沈黙が最適であろう。
饒舌はときとして軽薄だ。だから口を閉ざした。
捜査本部ビルの脇を走る幹線道路からクラクションの音がけたたましく響いた。松田から目を逸らして無言のまま地上を眺めた。 両方向二車線ともにスムーズに流れていた。テールランプとヘッドライトの光帯がまるで天の川だった。 霊魂の行く先を月は知らないけれど、どうやら天空のどこか成層圏に近いところにあるらしい。しかし松田も月も今夜は地上ばかりを眺めている。 世界最高峰の叡智を具えた探偵は、多くの不幸な人々を救った功績できっと天国へ逝っただろう。そうだと思われるのに地上ばかり眺めている。もしかしたらそれは地上にあるのだろうか。それとも本当は信じていないのだろうか。探しているのだろうか。あの黒い瞳がそこにあることを。もしかしたら。

「聞こえた?」
屋上の側面を囲むフェンスに両腕を掛けて寄りかかり、夜景を眺めていた松田が振りかえった。話しはつづいていたのだ。まだ探していたのだ。
整備工具のボックスに腰を下ろしていた月とは、2メートル程の距離があった。
松田は、右手の指にタバコを挟んでいる。左手には携帯用の灰皿。タバコを吸いにきたのだ。強引に誘われて付き添った月も、火のついたセーラムライトを中指と人差し指の間に挟んでいる。月は煙草をたしなまない。殆ど吸っていないのでまだ十分に長い。
「…『ラ』が邪魔ですね」
月がそう言うと、松田は少しだけ首を傾げた。松田の瞳の揺れる軌跡が白く光った。泣いているのかもしれなかった。
「『ラ』はいいんだ。基本旋律だから」
「基本旋律?」
「そう。バイオリンの開放弦Aも世界を調律するための始まりの音も『ラ』なんだって」
「はあ」
「それに歌詞のわからない曲って『ラーラーラー』って謳うよね?」
「そうですね」
「だから『ラ』は特別に許される。そういう特別な音なんだ」
「…それって誰の受け売りですか。それとも本の影響?」
月が訊ねると、あっさり見抜かれたことを恥じたのか、松田はすこし困ったような表情で目元を赤らめた。
「…なんだっていいじゃない」
「……」
こんな日は会話がつづかない。
続かなくても仕方ない。
しかし沈黙が気まずかったのか、松田はまだ半分残っているタバコをフェンスの支柱で揉み消して、二本目を抜き出して唇に咥えて吸いながらライタを擦った。赤い火がチカチカと瞬く。
ふーっという息遣いが聞こえた。
濃い橙色の炎が輝いた。
満足そうだった。
随分美味そうにタバコを吸うものだなと月は思った。
タバコは好きじゃない。
甘味王の嗜好の方がまだ理解できる。まあ、あれも行き過ぎだったけれど。
「簡単に死ねるんだね」
ポツリ、と。
松田が再び呟きを落としたのは、それから数分経ってからだった。
月は目を伏せた。
松田は俯いてしまった年下の青年を見つめて、また夜景に目を移した。
「人は死ぬ。わかっているのに普段は忘れているね。そうして人が死ぬのを目の当たりにしたときだけ思い出すよ。でもそういうのを抜きにしても、竜崎の死は僕にとって意外だった」
「………」
「うまく言えないんだけれど…竜崎がLだからかな。竜崎はなにがあっても死なない。 世界の最期の砦だって信じていたから不思議だった。死んでしまったことがじゃないよ。 変な話だけど竜崎はあっさり死んでしまうような予感があった。キラ事件とは全然関係のないことで、例えば交通事故とか過労とか。そういうね。 不思議なのは、キラ事件で殺されてしまったことなんだ。…死んでしまった、だから負けたっていうことが、すごく意外なんだ。 だって竜崎は言ってくれた。正義は必ず勝つ。自分の命が惜しくて、警察のほとんどの人間が捜査から手をひいて、残された僕たちと、初めて会った時に、僕たちを勇気付けてくれたんだ。 キラに命がけの僕らの意地を見せてやろうって。あの時から僕にとっては竜崎が正義だった。信頼に値する唯一の、正義そのもので、正義は死なないと思ってた。だからヨツバの火口を罠に嵌めるときも、僕はあの役を引き受けることができた。死ぬかもしれない役だったけれど、竜崎だから信じることができた。 僕が死んでも正義は死なない。世界は正しい方向に進もうとする。だから僕らのような職業がある。 もし捜査で死ぬとしたらそれは僕らの役目だ。死ぬのはこわいよ。でもそれとは関係のないところで、役目とか生きる立場があるんだ。だから指揮官は絶対に…」
「………」
「なのに現実は、…こんなふうに」
最後は弱々しい呟き。
「…僕もまだ信じられないですよ」
間が持たない。居心地の悪さを誤魔化すように月が相槌を打つ。
「でも、それでも…」
何もかも否定するような口ぶりで松田は首を振った。
「……」
「命懸けだった。なんで忘れるんだろう。生き残れるのはどちらか一方しかいない、そんなとき世界は残酷になる」
「…そんなこと」
「そんなことあるよ!」
「ま…」
「現実って一体なんだよ?!」
松田が突然語気を荒げた。
「卑怯だ! おかしいよ! 死神なんて! 死のノートなんて! 想像も及ばないじゃないか。それでも此処まで追い詰めた。此処までたどりついたのにどうして!」
「…松田さん」
「酷い。あんまりだ。どうやったら勝てたんだろう。僕らはこれからどうやってキラを追えばいいんだろう。 竜崎はどうしたら死なずに済んだんだろう…竜崎…竜崎に」
松田の声が震えているのがわかった。
うめくように呟いた。
逢いたい…
どこにいるんだよ竜崎?


「…ねえ、月くん」
「……」
「……竜崎は、」
「……」
「天国へ、行けたかな…?」
「……」
月は松田を見上げた。すぐに視線を逸らした。
21グラムの霊魂が存在するとして、魂の最終的に行き着くところが成層圏の近くだとして、それが天国という名であっても、 犯罪に恋する探偵はそんなところへ行きたがらないだろうと思った。
最期、意識が途切れる間際に、キラが月であると確信を得たのだ。 今度は手首どころではなく、魂同士を鎖で結びつけようと躍起になっているような気がした。数ヶ月つけていた手錠のあとは、いまも残っている。 魂も魄も目に見えぬものであり、それはくだらぬ妄想だったが、 しかし確実に云えることは、浮かれている月の心が抗い難いちからで引きずられているということだった。
連れて行かれたりするものか。おまえ一人で逝くがいいよ。竜崎。
「きっと、行けますよ」
松田が月を見た。
月の返答を受けて、松田は口元を歪めた。
「……簡単に言わないでよね?」




「うああああああああああああああああーーーーー!」
突然、松田は拳を固めて仰のいて口をひらいた。
腹底から叫んだ。
意味不明の叫び声をあげた松田を見て、月は度肝を抜かれた。絶句した。
「りゅうざきいいいいいいいいいいいぃーー!」
松田は、全身を折り曲げて叫んだ。
遠くまで声を飛ばした。
遠い。
遠い。
遠くまで届かせようとした。
「ええぇーるううううううううううううぅーーーー!」
自棄になったようにフェンスに体当たりをした。
フェンスを掴みガシャガシャと打ち鳴らした。
筋肉をバネのようにしならせた。
「うああああああああああああああああーーーーー!」
白い光が零れた。
目を擦った。
叫びながら何度も目を擦った。
また白く光った。
足元まで転がった。
涙を憎んだ。
見えなくなるからだ。
世界が滲んで不明瞭になるからだ。
探偵は疎むだろう。
視野を曇らせてはならない。
思考を停止させてはならない。
そうしなければ見つけられない。
目を凝らした。
見つめた。
見つめ続けた。
探し当てるためにだ。
「えぇーるぅーどーこーいぃるううううううううううううぅーーーー!」
絶叫。
遠い。
まだ遠い。
何処にいる?
遠い。
遠い。
遠い。
いまはこんなにも遠い。
何処にいる?
懸命に。
命を張った。
誰よりも。
強く生きた。
生きていた。
竜崎。
諦めずに。
信念をまげずに。
誤解を恐れずに。
たゆまずに、立ち止まらずに。
地上に…ある。
世界にある。
真実を。
求めた。
彼。
「ええぇーるううううううううううううぅーーーー!」
松田の絶叫に呼応するようなタイミングで、クラクションが鳴り響いた。

ワタシ ハ ココニ イマスヨ

叫び声が止んだ。
受話器の外れた電話を元に戻したようにパタリと止んだ。
月はおそるおそる松田に声を掛けた。
「…松田さん。大丈夫ですか」
フェンスに手を掛けて、はあはあと肩で息を整えている松田を遠巻きに見ながら、月は同情心を取り繕い、憐憫の微笑を浮かべようとして、失敗した。
全く理解できない。
わけではないが、とても正気の沙汰とは思えなかった。
「うん…はは…あはは」
どうせ安物だから気にすることはないんだと、松田は脈絡のない言い訳を呟き、その安物の背広の袖で目尻を擦った。 叫びながら目頭を擦ったために皮膚が剥けてヒリヒリと痛んだ。 明日の朝は、酷い顔になっているだろうねと呟き、ふと思い出したように 「そうだ、また明日もみんなと捜査をしなくちゃならないんだね」と、乾いた笑い声をあげた。絶望の深さは明日さえ見失わせていたようだ。
薄気味悪いと思いつつ、月は警戒心を残したままゆっくりと近づき、松田の肩に手を置いた。
全身が燃えるように熱くなっていた。
発汗したせいか、それとも晩秋の夜気を吸い込んだせいか、スーツが湿っていた。
松田は泣き笑いの顔を上げて、月を見た。
「…もう竜崎のことを思い出して泣くことはしないよ」
月はまた返答に窮した。
今晩の松田を相手にするのは、難しい。天然だからとかそういう理由ではなく。
「涙は耐え切れないストレスを緩和してくれるそうですよ。我慢することは無いと思」
「でも竜崎は泣かなかっただろ?」
「…それは」
「どんなに追い詰められた状況でも、冷静だっただろ。僕は竜崎みたいになりたいんだ。竜崎の強さを身に付けて、機転や智慧は…無理だけど、それでも遺志を継いで、負けたままにしておきたくないんだ」
言い切った松田の目は決意に耀いていた。けれど月は呆れた。
竜崎の資質は天性のもの。
けして誰も真似できるものではない。
なれるわけがないし、それは孤独を孕んだ生き方だ。
松田に引き受けられる重さではない。
そして本心から同情した。
最後に、──負けるような男になりたいの、松田さん?
「…そうですね」
月は、表情に憂いを含ませて微笑んだ。





屋上から引き上げてきた松田は、汗を掻いたと言ってシャワールームへ行ってしまった。
月は、捜査室ひとり残り、ソファに深く腰を沈めて、ふうっとため息をついた。今日もまた松田の突拍子もない行動に振り回されて非常に疲れた気分だった。しかし苛立つほどではない。松田を疎ましく思いながらも、今夜ぐらいは大目に見てやろうと寛大な心地になれるのは、すべてレムのお陰だった。
遺影すらない。
気配すらない。
もう此処には戻らない。
病院の霊安室で冷たい肉体は、ひっそりと沈黙し、白い布に覆われて荼毘に臥されるのを待っている。父の総一郎が臨終を看取った後、葬儀社へ連絡して明日にも火葬場へと運ぶ算段をつけたと言っていた。通夜も告別式も行わなず密葬する。
それが竜崎の最期だ。
竜崎の白い亡骸をイメージしながら、月はテーブルに一枚の紙が置き去りにされているのを見つけ、身を起こした。
死亡届だった。
父の筆跡らしい文字が並んでいる。

<氏名> 竜崎秀樹 男
<生年月日> 昭和61年2月21日
<本籍> 東京都XX区XX・・・
<死亡したところの種別> 病院
<施設名称> XX総合病院
<(ア)直接死因> 心臓麻痺
<(イ)(ア)の原因> 不明
<手術> 無
<解剖> 無
        ・・・

「『エル、何処居る?』」
月は低く呟いた。
何処いる?
はは。
──何処にも。
終わってみれば、竜崎=Lが存在した証明はこの紙切れ一枚。
そして捜査本部メンバーの記憶だけしかない。
名前すら偽り。
多分竜崎は真の孤独を知っていたのだろう。個人を捨て、身の回りの情報を一切捨て、人前に容易に出ることを許されず、靄のような噂だけの存在で複数の名前を操り、ますます不明瞭な情報の闇に溶け込む。 真実、もし彼がひとり生き延びて、人前に現れて自ら”L”であることを主張したとしても、おそらく誰も信じないだろう。 外界との窓口を担った老人・ワタリが亡くなった時からすでに、Lは帰属すべき所在を失っていたのだ。捜査本部の数人だけが生き証人。その証人たちもいずれキラと世界のために殺すだろう。しかしそれはもう少し先の将来だ。彼らは障害に成りえる器ではない。 だから今はワタリを殺して情報を抹消し、竜崎自身の肉体と頭脳を始末した。それだけでいい。
ようやく終わった…。
あいつは死んだんだ死んだんだ死んだんだ。
ソファに全身を預けて力を抜いた。もう一度、勝利を味わうために死亡届を見た。
明かりの中で翳すように。
透かすように。
はじめから目を通した。文面を読み終えるのに、ものの一分もかからない。
人は死ぬとこんな紙切れになる。
こんなにもあざやかに記憶しているのに。
火傷するように生々しく精神を焦がしあったのに。
何処いる?
ねえ、何処にいるの?
繋がれていた手首には鎖の重さが刻まれている。
竜崎。
白い頭脳。
黒い瞳。
辛い涙。
甘い舌。
エナメルの四角い歯。
細い首。
固い骨。
柔らかい皮膚。
丸い爪。
鋼の心臓。
弾力の腹。
硬質の脚。
愛した熱。
退屈を忘れさせてくれた唯一の…
竜崎…
という文字が、見あげていた死亡届のなかで水彩画のように滲んだ。
思わず瞬きをすると目尻から頬へと伝うものがあった。
驚愕して目尻を擦った。
瞬くほどにそれは白い雫となった。
月はそれをけして感傷の涙とは認めなかった。
あるとすれば安堵感からくる気の緩み。
障害を滅して悪夢は終わり心労はようやくすべて掻き消えた。
これから想うままに世界を創造できる。
そうだ、最大の障害であったあいつは死んだ。死んだんだ死んだんだ死んだんだ。だから僕は安心しているんだ。喜んでいるんだ。浮かれているんだ。涙腺が決壊するほどに。
そう念じるほどに魂が寂寥感を訴える。幻だ。そんなことはない。否定する。新世界の神となるべきこの魂は、だれかひとりの人間に囚われたりしない。肉体から切り離されたところに至高のものとして存在する。松田の感傷に引きずられてなるものか。連れて行かれてなるものか。
おまえ一人で逝くがいい。
天国があるというなら其処へ。
地獄があるというなら其処へ。
ひとりで先にラクになれ。
竜崎。
月は死んだとしてもそんなところへは行けやしないのだから…。