【サイバーメディテーション】


 付き合ってやればいいのだ。竜崎の気が済むまで。
 定められた位置に腰を落ちつける。背筋の流れをプラスチックの隆起に沿わせる。それから深くゆっくりと息を吸い、 限界まで胸を膨らませた後にふたたびすべてを吐き出す。 浮力を失った肉体がゆるゆると水底に沈む。腰が沈んで胸部が浸る。 僕の体積が水位を押し上げる。必然と小波が起こり、飴色の髪がほつれた糸のようにふわりと水中で広がる。 肩の力を抜くと、耳孔が水で塞がれた。 僕の肉体を覆い尽くしていくのは、体温よりもすこし高めに設定されたぬるい湯だ。体液とほぼ同質の水溶液だ。 息を吐くたびに、鼻と口元までひたひたと水際が押し寄せてくるけれど、頭のうしろに支えがあるので頭部が完全に水没することはない。 呼吸は可能。僕は心を静穏に保ち、ゆっくりと目を閉じた。
 トク、トク、トク──
 水中は心音を模した微弱音と淡い光に満ちていた。
 鼓動よりも少し遅いペースだった。ありきたりな胎内回帰願望の具現化。 しかしそのありきたりさが逆に安堵感を誘うとは、思いがけず侮れないことだった。
 しばらく耳を澄ませていると、眠たげな気分になって頭がぼんやりとしはじめる。 数分まえに服用した薬の影響もあるのかもしれない。精神を安定させるための薬です、と竜崎は説明した。 ぞっとするほど深い闇の眼をして、竜崎は僕を見つめる。そこになんの感情も見いだせない僕には、どんな抵抗の理由もない。 睡眠導入剤の類だとは聞いていない。しかしこのまま目を閉じて眠ってしまいたいと思った。
 徹夜明けの昼一時ごろのように酷い眠気に襲われてどうしようもなく、おそらくこれも竜崎の望むことのひとつだろう。
 そう考えて、欲求に、素直に従うことにした。
 視覚を閉ざす。
 しかし聴覚は閉ざされない。
 らいとくん。 
    らいとくん。
 低い声がしきりと僕の名前を呼ぶ。耳は水中にもぐっている。外耳が水没し、鼓膜が塞がれているためか音声の伝達が邪魔されて酷く聞き取りづらい。 まるでエコーがかかっているように何重にも聞こえる。しかし妙だと僕はおもう。これは奇妙な現象だ。
 第一、水中にもぐったときの音の伝わり方とは微妙に異なっている。
 第二に、僕は眠くて仕方なかったので、寝入ってしまったはずなのだ。 どうして呼びかけ続ける竜崎の声が聞こえたりするんだろう。
 ここはすでに僕だけの意識の世界のはずだ。
 捜査本部の地下暗室に持ち込まれた、
 近未来的質感の瞑想装置。
 まるでSF映画の人口冬眠カプセルのような外装。
 ──サイバー・メディテーション・システム。
 僕はその中にいる。
  らいとくん。
    ゆめからさめて、
   ください。
 横幅は肘を広げればすぐに壁にあたってしまう程度だが、縦は成人男性が足をのばして横たわるに十分なサイズだ。 体液とほぼ同質の水溶液が三分の一ほど入れられており、僕が横になるとちょうど全身がぬるい湯で覆われた。 カバーを閉じてしまえば完璧な密閉空間。 そうして五感に対するいっさいの刺激を遮断した状態で、脳波を誘導する弱い音や光の刺激を与え瞑想することにより、 深い記憶の断層に落ち込んだ情報を再生する。よくある催眠誘導と似たようなシステムだ。技能者との一対一の対話で 記憶の回復につとめることが、このシステムで機械的な外部刺激に置き換えられている。
 だから僕は、すでに深い瞑想の中、つまり自己の意識世界にいる。らいとくん。らいとくんと繰り返されるこの声は、 きっと僕が記憶した竜崎の声を、意識の中で構築して再生しているのだろう。 つまり記憶の回復ははじまっている。もうとっくに稼動システムの一部として僕の意識は取り込まれ、一体化しているのだ。 インプット情報は僕の記憶、アウトプットが瞑想夢。そんなところだろうか。 装置と直結。一体化。らいとくん。らいとくん。 多分そうなんだろう。
 ──ねえ、そうだろ?
 キラじけんにかんするじゅうだいなことを。
 おはなししたいとおもっています。
 ──何を、竜崎?
『私はLです』
 ふいに耳元で鮮明な声がした。
 ハっとして目を見開く。
 ひかりが視界を開く。
 夢の中で目覚めるという状況だ。
 おかしなことだが、 目を開いた途端にすべてが明るくクリアになった。
 辺りを見回すとそこは大学の入学式の会場だった。
 低く耳慣れない声がすぐ目の前で、した。
「どうしました?」
 瞬きをすると忽然と現れた。
 油断のならない黒い目がこちらを見つめていた。
 黒髪に縁取られた痩せた顔が、
 すぐ目の前に、
 いた。
「…流河」
「はい」
 壇上を降りた、
 階段の、直後だった。
「………」
 ぼさぼさの黒い髪。
 くっきりと化粧をしたように黒く染み付いている目のしたの隈。
 背丈は同じほどなのに、ひどい猫背のせいで上目づかいに僕を見つめる。
 懐かしさに驚いた。
 昔話というほどの過去のことではないのにとても懐かしく感じられた。 なぜいまになって思い出されるのだろうと考えたけれど、 これがたぶん竜崎に投与された薬品とサイバー・メディテーション・システムの威力なのだろう。 過去を初めから再生する。思い出すことが必要なのだ。はじめのときから終わりまで。 そこになにがあるのかはわからない。いくら再生しても何も変わるはずがない。変わってしまうことはない。 けれどそれが竜崎の望みであれば、僕は幾らでも付き合うのだ。記憶の回復装置。 それ以外のどんなことでも。
「…どうかしましたか?」
 想念にとらわれて言葉を見失った僕に対して、訝しげな視線を向ける。
「………」
 その眼に、これがLだとひとり得心する。
 信じることを封印し、疑うことしか知らないと言わんばかりの目つきだ。これがLだ。
 あのとき── いや、このとき、僕は、ふたりで新入生代表をつとめ終え、壇上から降りる階段を歩いていた。 おはなししたいとおもっています。背後から囁かれたことばに足元がグラつくほど驚いた。私はLです。痩せすぎた体躯。 長身を持て余したように屈め、 異端であることを隠しもしない服装と態度。服に纏わりついている、妙に甘ったるい香り。
「私はLです」
 竜崎は、Lと名乗るには若すぎて異質すぎたから、逆に直感的に得心した。
「だとしたら僕のもっとも…」
 彼がLだ。
 恐らく本物だろう。
「逢いたかった人物です」
「………」
「……」
 言ってから気付く。
 竜崎の視線にうっすらと皺が寄る。
 それに気付き、僕は、こぼれた本音にようやく自覚する。
「あなたは僕の尊敬する人です」
「どうも…」
 ますますと訝しげな視線が寄せられる。
「名乗ったのは…」
 竜崎が何かをはなしている。
 僕はそれを無声映画のように見る。
 逢いたかった──というのは、まぎれもない本音だった。
 Lという存在をテレビを通じて知ったときから、たとえどんな男であろうとも、 もしも逢えたならと夢想せずにはいられないほどにこころを惹かれていた。
 しかし単純な憧憬なのかといえばそうも言い難く、思い返してみれば、ヒトメボレに近かったかもしれない。 死刑囚を代理に座らせてまでキラの殺人手法を暴こうとする、厭きれるほど固く意志を貫くやり口に、強烈に惹かれた。 多少理不尽なやり方であっても、最終的な目的にたどり着くためであればギリギリの範囲内で倫理・法律を犯すというやり口は、 僕にとって完全に認められるものではなかったが、しかし感情を揺さぶられるには十分すぎる生き様だった。
 だからキラと疑われて嫌悪し疎みながらも、逢いたくて逢いたくてたまらなかった。
 毎日、追っていた探していた。
 大学の構内をふらふらと歩む特異なうしろ姿を見つければ、痺れるような緊張と欲求を感じた。
 憧憬を暴かれてしまうことの恐怖と、それを上回るほど、なにもかも知りたいという独占欲にも似た焦燥を抱いていた。 知りたい。そうだ、あのころ、名前が知りたくて気が狂いそうだった。
 けれどただの友人のように気軽に問いかけることもできない。彼はL。あからさまな偽名はライフガード。 誰もが知っているアイドルの名を語る。僕は容疑者。
 交点はそれだけ。
 それだけ。
 映像が切りかわる。僕のなかでイメージがリンクする。
 テニスコート──、喫茶店──
 林檎しか食べない
 ・死神は・
 手が赤い。
 裕福な子供?
 …病院。
 世界が変化する。
 めまぐるしくすべてが変化し続ける。風景が微細な光をちかちかと放ちながら煌めいて通り過ぎる。 通り過ぎたかと思えば、また戻ってくる。僕は乱回転するイメージ画像の渦に陥る。すべてがさかさまに映る。
 僕だけがそこから切り取られた異質の生身だ。
 意識をもちつづける僕だけが、生身だ。
 僕だけの世界を、コントロールするのは、
 僕のこころ。
 支配される。
 つき動かされる。
 しかし僕は、精神活動を重視する。
 だからいつも、
 こころは、蚊帳の外なのだ。
「きっと好きなんだろうね」
 唇は自然と動いた。
 ソファにもたれかかっていた。
 重たくなった思考を擦り合わせるように刺激した。
 第二のキラの捜査を手伝うように依頼され、出向いた先のホテルの一室だった。



...続く?...