- 一期一会 -


「月。あまり遠くへ行っちゃ駄目だぞ。」
「うん。分かってるよ、お父さん!」
 溌溂とした返事をして軽快に走り出していく幼い少年。
 すがすがしく雲一つない青空。明るく照らす日の光が木漏れ日となってキラキラと降り注ぐ。 鮮やかな緑の芝生が一面に広がり、むせ返る程の若草の匂い。
 ここはイギリスの首都ロンドン。
 警察に勤務する総一郎は少ない休みの中、家族4人で海外旅行を楽しんでいた。 比較的観光のしやすい市街地を選び、ハイドパークが目前に見えるホテルを予約していた。日本では味わえない英国式の公園は日常を忘れ伸び伸びと過ごす事ができる。 朝食を終え、散歩がてら公園を散策している。壮大な広さを誇るハイドパークの西方に隣接した、ケンジントン公園へ。寺院を訪れるより幼い子供2人にはこちらの方が数段楽しめるだろうと、午前中いっぱいはここで過ごす事に決めた。
 暫く遊ぶのに付き合ってくれていた父親は、少し疲れたのか休もうと言ってベンチへ向かう。けれど幼く好奇心旺盛な少年は満足できず、一人で散策する事を願い出たのだった。目の届く範囲でならと父親は承諾して、許しを得た途端月は走り出していた。
 長い池沿いに南下して暫く歩いていく。これ程広い公園は未知の世界。 少々退屈さを感じていた月は目の前に広がる全てに心踊って、無我夢中に歩を進めて行った。
 暫く行った先に数人の人だかりができていて、それを目にした途端期待に胸膨らませ走り寄る。 小さな体を利用して人だかりをくぐりぬけると目の前に大きな像が現れた。
 土台には小さなリスや妖精がちらほらと、その一番上には小さな子供が佇んでいる。
 それが一体何なのか月には知る吉もなく。けれど充分心惹かれるものがあった。
「わぁ…」
 思わずこぼれた言葉。
 そんな月の言葉に隣でピクッと反応を示した何かを感じてふと隣に視線を移す。品のある英国式の正装、ツンと跳ねた黒髪、真ん丸で黒く大きな瞳、自分より僅かに背の高い少年がこちらを不思議そうに見つめていた。自分と差して歳が違わないようにも見え、それでいて落ち着いた雰囲気。異様なオーラを放っている。
「He is peter.」
「え?」
 突然開かれた唇から英語が飛び出して、驚きにビクッと体がこわばった。そんな月の反応に彼は数回瞬きを繰り返す。けれど、小さく微笑みを浮かべ続けて口を開いた。
「この像はピーターパンですよ。」
「え?」
 彼の言葉に再び像を見上げる。
 ピーターパンの存在はもちろん幼いながら知っていた。だが、自分の知っているピーターパンとは幾分違った雰囲気だ。その意外性に驚いたのだが、それだけでなく、隣の彼がふいに日本語を口走った事に同じくらい驚いていた。一体何者なのだろう。見た目からは自分とはあまり変わらなく見えるのに。
 ピーターパンと言えば、幼い頃母親に絵本を読み聞かせられたり、かの有名なアニメーションを数回観た経験がある。
 この物語を知った時、成長する事を拒絶するウエンディには共感できずどこか釈然としなかった。この小さな体では未熟過ぎていつまでも満足し得る事はない。子供だからと切り捨てられ歯がゆさを感じる事もしばしば。様々な物を吸収し身に付け速く大人になりたいと願うのに。
 永遠に大人にならない少年には感情移入できなかったのだ。
 子供で在り続ける事に何の意味があるのだろう。月の瞳からは大人の世界は魅力的で仕方ない。大人の方がいっそ自由で自分の理想を現実に形作っているように見えるのだ。
 じっと見上げている視界の横からスッと何か横切る。焦点を合わせると隣の主から伸ばされた白い手。指には金色のコインが握られ、月に向かって差し出されていた。だがそれは本物ではなく金色のアルミ箔に覆われたチョコレート。
「くれるの?」
 躊躇いがちに伺うと小さく笑みを浮かべ頷いた。見知らぬ人から何か貰うのは少々気が引けた。それは親の言いつけでもあったが、こんな異国の地で会ったばかりの人に。
 だが自分とそれ程変わらない子供が差し出すもの、まさか疑いのかかるものではないだろう。
「ありがとう」
 それに彼の丁寧な話し方は、どこか柔らかく人当たりの良さを感じたのだ。微笑み返してお礼を言う。
「君の名前を聞いてもいい?」
 自然と出たその質問に、彼の表情が少し困惑したものに変化した。
 突然名前を聞くだなんて確かに相手を困らせる、彼の表情に自分が罪悪感を感じてしまう。
 けれどチョコを差し出した彼の笑顔が何故か嬉しくて、この一期一会の記念に名前を聞いておきたいと思ってしまった。
 困惑していた彼がふいにしゃがみ込むとこちらを見上げる。笑みを浮かべながら手招きをするので彼に続くようにして月もしゃがみ込んだ。
 細い人差し指が静かに地面をなぞり始める。それを見下ろす黒い瞳を一瞬覗き込んで、自分も同様に地面を見下ろした。 指先が真っ直ぐ縦になぞってピタッと止まる、そしてそのままゆっくりと直角に右へ。そっと指先を離すとまた膝を抱え込んだ。 細い指が描いた軌跡を頭の中に思い描く。それはあまりにもシンプルな一文字。
「…え‥……る?」
 呟いて顔を上げると、目の前の黒髪の彼はにんまりと微笑みながら上目使いでこちらを見上げた。
 える?エル?これが名前だろうか…想像していたものとは違って月は困惑した。
 そんな月に突然白い指先が向けられる。
「えっ?僕?」
 コクリと頷く彼。そうだ、自分はまだ名乗っていない。相手に名を尋ねる時、本来なら自分から名乗り出るのが礼儀だ。彼の困惑した表情の理由はきっとそれなのだと思い、少し恥ずかしくなる。
「僕の名前はね、や」
「月っ!」
 突然名を呼ばれ振り返るとそこには真剣な面持ちで立っている父親の姿。思わず立ち上がる。
「一人でこんな所まで、心配するだろう。」
 酷く心配そうな表情で叱咤される。そう言われれば大分歩いて来てしまった。言いつけを破るつもり等なかったのに、父親の心配そうな表情が月の胸を締め付ける。
「ごめんなさい」
 小さくそう答えた月の頭を優しく撫でる大きな手。
 実のところ一人にした訳ではなく息子の後を静かについて行っていたのだ。好奇心旺盛な息子が大人しくしている訳がない事を知っている。ましてや幼い子供から目を離す筈もない。
「息子の相手になってくれて、どうもありがとう。」
 うつ向いた少年を撫でていた父親と思われる人物が、微笑みを浮かべてこちらに礼を告げた。 うつ向く彼は微かに顔を赤らめている。
 促すように父親が手を引いて、さぁ行こうと呼びかけた。けれど一歩踏み出した瞬間、薄い茶色の髪の彼がそれに反して振り返る。 小さな掌をポケットに差し込んでゴソゴソと動かしてから再び引き抜く。
「はい、お返し。どうもありがとう」
 そう言って小さな握り拳を差し出した彼の笑顔は綺麗で天使のようだと思った。彼の掌からそれを受け取って握り締める。触れた指が温かった。
「じゃあね、バイバイ!える!」
 そう告げて彼は父親と足取り軽く去って行く。柔らかくキラキラとした笑顔。サァーッと風が木々を撫でサワサワと心地よい音色を響かせた。





「L、お待たせしました。そろそろ参りましょう。」
 そっと立ち上がった拍子に後方から呼びかけられ振り返る。
「笑顔の素敵な少年でしたね。」
 初老の紳士は穏やかな表情を更に柔らかくしてそう言った。再び、あの少年が去って行った方を向いてじっと見つめる。
「はい、とても可愛らしい少年でした。」
 あの親子の姿は既に見えなくなっている。けれど未だこの空間に、彼の生き生きとした眩い笑顔の名残が漂っている。ふと握り締めていた掌を拡げて覗く。包み紙を広げ、摘み上げたそれをコロンと口の中へ入れた。
 ふいに口内に拡がる甘酸っぱさ。この空間にではないのだと悟る。自分の心にあの笑顔が残っているのだ。春風のように暖かく、私の心をそっと撫でて。あっという間に過ぎ去っていった。
「行きましょう。ワタリ」
 微笑みを浮かべる彼を見上げて言葉を発した。と、同時にキャンディーが口内で転がる際の特有の音が響く。
「美味しいですか?」
 歩き出した黒髪の少年の後に続きながら尋ねると、彼は足を止めクルッと振り返る。
「はい、林檎味です。」
 また一つ、コロッとキャンディーを転がした音が響いた。







「おい竜崎!いい加減起きろ!」
 体を激しく揺さぶられパチッと目が覚めた。身体を丸くしていた竜崎は不機嫌そうに首だけを回して振り向いた。
「何時だと思ってるんだよ、いい加減起きろ。今日は早くからミーティングだろ。」
 ベッドの脇に腰かけたまま苛立ち気にそう喚く彼。けたたましく鳴る目覚ましの様だ。
 フゥッと小さく溜め息をこぼしてゆったりと、さも面倒臭いとった感じに起き上がる。 その間も目の前の唇は絶えず煩く鳴き続けた。寝起きの頭に内容など何も入って来はしない。実際は入って来ないのではなく拒絶しているだけ、理解しようと思えば当たり前に出来る。
 せわしなく動き続ける唇をじっと見つめる。無音の中で忙しく開閉するそれは、瞳に映るだけで充分煩わしく感じられた。
 そっと自分の唇を寄せて触れるだけのキスをする。ゆっくり瞬きを繰り返しながら離れると、不機嫌な表情が驚きに変わっていた。滑らかな頬を両手で包み込んで触れるだけの軽いキスを続けて数回繰り返した。
 微かに朦朧とした意識の中見つめる彼の表情。美しく整った顔立ちは、眉間に少し皺を寄せ何とも言えない複雑な表情を造り上げている。その表情がとても愉快で顔が思わず綻んでしまう。
 途端に引き寄せられて柔く抱きしめられた。彼の肩に顎を乗せ身を預け、そのまま瞳を閉じる。自分の肩にも同様に彼の存在を感じた。
「可愛らしい…って、誰の事だ?」
 閉じていた瞳がハッと開く。一瞬何を問われたか判別できずに。けれどその一言ではっきりと頭が覚醒した。思わず吹き出してしまいそうになるのを必死に堪える。不機嫌な彼の理由、その根底に気付いて胸踊ってしまう。
 けれど笑ってしまうのは流石に可哀想だ。これを問うことだけでも充分彼は恥ずかしめられている。
「さぁ、何の事でしょう…」
 笑ってしまうなんて可哀想過ぎる。だってあまりにも彼は純粋で、こんなにもいじらしく可愛らしい。
「…嘘つき」
 短い彼の悪態は耳に心地よく。一日の始まりを告げるには充分だった。
 あれ程幸福な夢を見たのは久しぶりだったのに。 それを邪魔されて些か苛立っていた。けれど、今はそれを消し去る程に気分が良い。
 もし彼に夢の内容を話したらどんな表情をするだろうか。
 嫉妬に燃える相手が誰なのかを教えたら。
 白い唇が不敵に歪む。


 けれどそれは、私だけの秘密…


-END-


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crossover 4000hit記念SS!
kirara様ありがとうございます〜!